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<3.11明日への証言>届かぬ惨状 職員も混乱

避難所となった中央公民館前で震災当時を振り返る岩佐さん。奥はプレハブの町役場仮庁舎=宮城県山元町

 震災から月日が流れた。あの日あったこと、明かせずにいた思い。6年がたつ今だからこそ、記憶が薄れる前に、伝えたい「あの日」を振り返り、明日へつなげよう。

 宮城県山元町役場は東日本大震災発生時、外部への通信機器全てがダウンした。非常時に県と市町村を結ぶ県総合防災情報システムも使用不能に。津波で町の4割が浸水し、激しい余震で庁舎が使えなくなった。県職員が役場に駆け付け、町の詳しい情報が県に伝わったのは、震災3日後だった。

◎震災6年(3)通信手段失った町役場(宮城県山元町)

<車で直接出向く>
 「毛布1枚でもお願いします」。震災2日後の2011年3月13日。当時の副町長平間英博さん(59)=現在宮城県職員に復帰=は、町職員と2人で町役場から約10キロ西の角田市役所に駆け込み、必死に訴えた。
 住民637人が犠牲になった町には、この時点で安否不明者が多数いた。避難所では食料と毛布が極度に不足した。「携帯電話も固定電話も通じず、車で直接出向くしかなかった」
 県総合防災情報システムは、町職員が端末機器に情報を入力すれば専用の有線回線で惨状が県に伝わるはずだった。町役場が停電し、使えなかったらしい。
 システムを補完する県防災行政無線網によるファクスは自家発電で使える想定だったが、これも作動しなかった。震災から6年を迎えるが、町はいまだ詳しい原因を把握していない。
 県が当時広報した市町村別の被害状況から、町が孤絶していたことが分かる。13日午後6時51分現在の発表は死者・行方不明者、避難者数など全項目で、山元町だけ具体的な記載がなかった。

<来てすぐに去る>
 地元の消防関係者には苦い記憶がある。
 亘理地区消防本部によると、兵庫県の緊急消防援助隊約250人が13日午後、山元町に入り、14日早朝から本格的に活動を開始。その直後の午前7時40分ごろ、県庁にあった援助隊の調整本部から、山元から約100キロ北の宮城県南三陸町への移動指示が出た。当時、南三陸町の甚大な被害が報道されていた。
 山元町では14日、奈良、愛知両県の部隊計約110人、陸上自衛隊員約690人も活動していた。生存率が急激に低下するとされる発生72時間を目前にした移動。消防本部の消防長として当時指揮を執った星敏夫さん(66)はショックを受けた。「来てすぐ去ってしまう落胆は大きい。指示は県に町の状況が伝わっていなかったことが関係していると思う」と証言する。

<次善策 準備必要>
 「報道と県は三陸に注目し、山元への支援の動きは鈍かった。町の情報発信の在り方にも問題があったのだろう」と言うのは当時、町自主防災会連絡会会長だった岩佐徳義さん(82)。
 岩佐さんは町公民館に設けられた避難所の運営に携わり、隣の役場の様子も伝わってきた。「役場職員と住民はパニック状態だったが、通信手段が使えないときの次善の策の準備は重要だ」とみる。
 斎藤俊夫町長は「職員の数が限られ、全員が目の前の対応に忙殺されていた」と釈明する。ある役場関係者は「通信手段を失った場合、地域防災計画では代替手段の確保に努めると定めていた」と指摘。「震災直後は計画が頭に入っていなかった」と打ち明ける。(亘理支局・安達孝太郎)


2017年03月07日火曜日


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