宮城のニュース

<あなたに伝えたい>褒められた油彩に熱中

自宅アトリエで油彩画の制作に励む及川さん。「両親は私の絵を褒めてくれました」=宮城県登米市

 菊地幸夫さん=当時(81)、秀子さん=同(77)=は、宮城県東松島市のJR野蒜駅近くの自宅に2人で暮らしていた。津波で家屋は崩壊。幸夫さんは誕生日翌日の2011年3月27日、秀子さんは同29日、市内の石巻西高体育館で遺体となって安置されているのを、登米市に嫁いだ長女及川寿美子さん(58)夫婦が見つけた。

◎七回忌に寄せて(9)手先器用な父、洋裁上手の母/及川寿美子さん(宮城県登米市)から菊地幸夫さん、秀子さんへ

 寿美子さん 造船会社に勤めていたお父さん。手先が器用で、私と兄が幼い頃は、木製のおもちゃをよく作ってくれました。お母さんは洋裁の仕事をしていて、私たちはもちろん、私の息子2人の洋服や学生服も縫ってくれました。津波でなくなった家の跡地に残っていたミシンは今、私の家にありますよ。
 お父さんは口数が少なく優しかった。「うんうん」と話を聞いてくれました。お母さんは明るく話し好きで、東松島市のコーラスグループに所属していました。お母さんが歌うステージを一度も聞きに行けず残念です。震災後、私も登米市の合唱団に入って歌っています。
 私は今、病院事務の仕事をしながら、夫と2人で油彩画に打ち込んでいます。私は小さい頃から絵が好きで、高校で油彩を学びました。お父さん、お母さん、私の絵を褒めてくれましたね。河北美術展に入選した時も喜んで見に来てくれました。10年の石巻市美術展で入賞した時が、2人が私の作品を見た最後になりました。
 震災前、月に1度か2度会いに行きましたが、もう少し頻繁に訪ね、話をしたり、裁縫を教えてもらったりすればよかったと思います。今も、野蒜に2人が居て、私たちを待っているような気がします。
 震災2日後、お父さんたちを捜しに夫と野蒜に行きました。あるはずの家がなく、がくぜんとしました。地獄のような光景に足がすくみました。がれきの中を捜して歩きました。2人の名前を呼びながら、避難所をいくつも回りました。声が震える私を避難所にいた被災者の方々が、励ましてくれました。
 あれから6年がたちます。悲しみは一向に消えることはありません。両親の最期をみとれなかった。それが残念でなりません。


2017年03月09日木曜日


先頭に戻る