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<回顧3.11証言>迫る津波「待機」なぜ

園児3人が犠牲になった山元町東保育所。入り口付近には追悼の花が供えられている=2011年9月29日、宮城県山元町山寺

 宮城県山元町東保育所は、園児3人が東日本大震災の津波にのまれ、震災で被災した保育所の中で唯一、保育中の子どもが犠牲になった。職員と園児たちは津波が間近に迫るまで園庭に待機し、逃げ遅れた。「天災ではなく人災だ」。遺族は半年以上たった今も、町や保育所の対応に疑念をぬぐえないでいる。

◎宮城・山元町の保育所園児3人犠牲

<指示通り>
 町などによると、2011年3月11日午後2時46分、東保育所では大きな揺れに見舞われた後、保育士らが園児62人を園庭に避難させた。所長は指示を仰ごうと午後3時20分ごろ、非番で駆け付けた保育士を町役場に派遣した。
 「総務課長から現状待機と指示された」。戻ってきた保育士はそう報告。迎えに来た保護者に引き渡した園児を除き、残った1〜6歳の園児13人と職員14人が指示通り、園庭で待機を続けた。
 事態が急転したのは午後4時ごろ。保育士の1人が南東約80メートル先に津波を確認した。「津波だ!」。保育士の叫び声に所長は「車で逃げて」と指示。園児たちは職員の誘導で向かいの駐車場に移動し、保育士と居合わせた保護者の車計10台に分乗した。

<手が離れ>
 犠牲になった2歳男児、6歳男児、6歳女児の園児3人が乗ったのは保護者のワゴン車で、ほかに1歳女児と6歳男児の計子ども5人と主任保育士1人が同乗していた。6番目に保育所を出発したワゴン車は数十メートル先で津波に遭い、駐車場に引き返した。
 主任は1、2歳児の2人を連れ、避難しようと車の外へ。「あっという間に水が胸まで来た」。そばにいた6歳女児を車の屋根に押し上げたが、6歳男児は水に漬かっていた。主任も近くの介護施設「愛広館」まで流された。
 愛広館には、ワゴン車に乗っていた保護者ともう一人の6歳男児らが避難していた。主任とおんぶしていた1歳女児は助けられたが、抱っこしていた2歳男児は直前に「手から離れてしまった」という。
 6歳女児は翌日、6歳男児は3日後、2歳男児は約1カ月後、それぞれ遺体で見つかった。

<「退避」?>
 「対応が良ければ十分助かった。無駄死にさせてしまった」。6歳の一人息子を失った母親(46)は怒りをあらわに語る。
 遺族側が特に問題視するのは「現状待機」の指示だ。町は「『退避』を『待機』と聞き間違えた可能性も否定できない」と釈明するが、遺族側は逃げ遅れた最大の原因とみて追及している。
 海岸から約1.5キロ離れた東保育所では、主に宮城県沖地震に備えた避難訓練を月1回行っていたが、津波を想定した避難行動計画はなかった。
 避難の際に車が駐車場を出た順番も、遺族側は問題視する。職員1人と園児3人の1台目、職員1人の2台目、所長を含む職員3人と園児1人の3台目までは難を逃れたが、4台目以降は津波に襲われた。遺族側は最多の園児5人を乗せたワゴン車が6台目だった状況に疑問を抱く。
 山元町の斎藤俊夫町長は「町の管理下において、幼い3人の犠牲者を出してしまった事実を真摯(しんし)に受け止める必要がある」と話し、一定の責任を認めている。だが、徹底した真相究明と再発防止策を求める遺族側との協議はなお隔たりが大きい。
 「知らない間に半年以上たった。まだ3、4日前という感じがする」。2歳の一人息子を亡くした父親(27)はそう振り返る。遺族の悲しみはいまだに癒えない。(小沢一成)=2011年10月14日、河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年03月09日木曜日


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