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<千葉すずと五輪>心の弱さと向き合う

夏休み恒例の市民向け水泳教室で受講者と笑顔を見せる千葉さん(手前中央)。障害者も健常者も老いも若きも一緒だ=2016年8月、大阪市内

 かつて天才スイマーと呼ばれた少女がいた。仙台市出身の元競泳五輪代表、千葉(本名山本)すずさん(41)=奈良県在住=。世界に最も遠いと言われた女子自由形で、恵まれた体格を生かしたスケールの大きな泳ぎで世界の強豪と伍(ご)した。1992年バルセロナ、96年アトランタの両五輪に出場したが、メダルには縁がないまま引退。その後、マスコミの前から姿を消したが、結婚を経て子育てが一段落した3年ほど前に障害者向け水泳教室や講演活動を始めた。今、東日本大震災の被災地へ足を運び、古里にも心を寄せる。(聞き手は宮田建)

 <企業や市民などを対象に講演活動をしている>
 選手時代、自分と向き合い、落ち込み、苦しみ、悩んでいた。どん底に突き落とされるぐらい世間にたたかれ、つらい思いもした。
 こういう経験を話すと聞いた人が「元気が出た。もう一踏ん張りするわ」と言ってくれる。そんな時、人生を頑張ってきて良かったと実感する。心が折れずに生きてきた経験をこれからも多くの人に伝えたい。

●発言が誤解招く
 <自由奔放な言動も注目を集めた。女子競泳の主将を務めた1996年アトランタ五輪では「楽しみたい」という発言が誤解や反発を招いた>
 日本の練習は泳がされている感覚が強く、苦しいだけ。結果が出ず「何が残ったんだろう」と思った。留学した米国では、泳ぐも泳がないも自分次第。米国選手は水泳以外の時間を楽しみ、自立した人生を歩んでいる。だから強いと気付いた。「楽しむ」とは「自分で考えて普段のペースを守り、周りに惑わされない」という意味だった。
 <会心のレースは中学3年で出場し3位だった91年世界選手権400メートル。五輪・世界選手権の女子自由形では日本人初のメダル>
 「ゾーン」に入り、速さを感じながら最高に気持ち良く泳げた。マスコミもあまりいなかった。気持ち良く泳げたのは、それが最初で最後。その後、どこかしんどかったり、何かを犠牲にしたりして苦しんだ。
 <16歳で出場したバルセロナ五輪では100メートルが9位(日本新)、200メートルは日本女子自由形で56年ぶりの入賞となる6位、400メートル8位と結果を出したが、マスコミの関心は金メダルの岩崎恭子選手に移った>
 五輪の怖さを知らないまま出場した。入賞でも十分だと思うが、マスコミは手のひらを返したように態度を変えた。メダル以外だとこうも変わるのか。五輪出場はその時の全てをささげた目標。栄光の舞台と思っていたのに、出場の先に何があるのか。五輪を目指す意味が分からなくなった。

●異常なメダル熱
 <国内では圧倒的な強さを見せながら、五輪ではなぜか振るわなかった>
 スポーツ選手としては繊細でメンタルが弱く、向いていなかった。成績が良くても理由を付け「すごい」と思わないようにした。コーチから思考を変えるように指導されたが、できなかった。自分に負けていた。水に入って「体が重い」と感じたら、諦めてしまう。
 マスコミとの確執も影響した。報道が過熱する五輪は異様な雰囲気にのまれ自分を見失い、そちらに精力を奪われた。日本人のメダル熱は異常。個が自立していないから自分にできないことを相手に求める。私はそこに反発し戦ってきた。

●世界と戦えない
 <2000年4月、同年シドニー五輪代表から漏れた。8月のスポーツ仲裁裁判所の裁定でも日本水連の選考結果は覆らなかった>
 提訴は「曖昧な選考ルールを変え、明確にしてほしい」というのが第1だった。私の中では選考会で五輪は終わっていた。社会的に意義があったと多くの人に言われたが、どこか人ごとで冷めていた。
 (シドニー五輪に)出なくて良かった。国民はメダルを期待するが、世界の強豪と戦える状態ではなかった。出たら、つらい人生になった。五輪は特別。また、がちがちになって萎縮していたと思う。「大丈夫」と自分に言い聞かせても、心のどこかで「やっぱり、駄目なんだろうな」と思う部分と葛藤があった。
 <2020年東京五輪の行方を気にしている>
 外国の選手や観客が心から楽しめる大会にできるかどうかが心配。外国の人々はスポーツをリスペクトし、心から応援してくれる。それが心地よかった。
 もう一つ願いがある。マスコミも観客もスタッフも、パラリンピックと五輪を同等の価値がある大会として思い、扱ってほしい。両大会とも障害者がスタッフとして普通に参加しているようになればいい。

 ▽千葉すず(ちば・すず)本名山本すず。身長172センチ。10年に一人の大型スイマーと言われ、特にストロークは天性と称された。
 中学2年で日本選手権200メートル自由形初制覇。3年時に世界選手権400メートルで銅メダルに輝き五輪、世界選手権の女子自由形で日本人初のメダリストに。愛くるしい笑顔が「すずスマイル」と呼ばれ、日本競泳界のヒロインになった。
 高校卒業後、女子自由形の英雄ジャネット・エバンス(米国)を育てたバッド・マカリスター氏に師事。日本記録を幾度も塗り替え、25歳で引退するまで、日本女子競泳陣をけん引した。
 2000年シドニー五輪代表選考会で標準記録を突破し優勝したが、選ばれなかったため国際機関のスポーツ仲裁裁判所に、五輪出場と代表選考の明確な基準を求めて提訴。訴えは棄却されたが、選考基準の明確化、透明化に一石を投じた。
          ◇         ◇         ◇
■取材後記
 「東日本大震災の被災者を元気にしたいという趣旨に共感した」。マスコミ嫌いで知られた千葉すずさんはこう語って、引退後初めて長時間のインタビューに応じた。
 競泳界の元ヒロインの話しぶりからは、飾らない人柄が伝わってきた。取材は和やかで笑いが絶えなかったが、マスコミや競泳界の話になると、口調は鋭さを増した。ただ、勝ち気さの後ろには繊細な心が潜んでいた。
 「結局は自分の問題。悔いも未練も恨みもない。すねてもいいけど、つらくなるだけ。その先に良いことがないことが分かった」という言葉は、苦しんだ末に見つけた答えなのだろう。
 引退から16年半。4児の母、メダリストの妻として幸せそうな姿を見て、ホッとすると同時に、五輪の意味を考えさせられた。(宮田建)


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2017年03月10日金曜日


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