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<回顧3.11証言>「情報なし」沢水で米を炊く

福島県浪江町津島地区に続く道路。原発事故から逃れる避難者の車で大渋滞になった=2011年3月12日午後
2011年3月23日に公表されたSPEEDIの放射性物質拡散解析図

 福島第1原発事故で福島県浪江町の住民が集団避難した同町津島地区は、高濃度の放射性物質が降り注いだ地域だった。だが、放射性物質が大量に漏れた情報は国や東京電力からもたらされず、住民は自分の身に危機が迫っていることを知らずに事故後の4日間を過ごした。(勅使河原奨治)

◎福島・浪江町民、高線量地と知らず避難(上)

<発令>
 2011年3月11日午後2時46分。福島県浪江町の馬場有町長は町長室で激しい揺れに遭った。災害対策本部を設け、防災無線で町民に津波からの避難を促した。
 浪江町は横に長い。東は太平洋に面し、西は海岸線から30キロ以上内陸に食い込んでいる。第1原発の立地する双葉、大熊町は南に位置し、浪江町の東半分は原発事故後に警戒区域に指定された。
 11日は沿岸部の町民らが続々と役場に避難してきて、役場は炊き出しや毛布の準備に追われた。
 深夜、町長は作業が一段落し、テレビのニュースに目を向けた。第1原発が原子炉を冷却できなくなったとして、政府が緊急事態宣言を発令したと告げていた。
 翌12日午前5時44分。福島県は浪江町の一部を含む10キロ圏内の住民に避難指示を出した。テレビの情報だけを頼りに町は災害対策本部を原発事故対策本部に切り替えた。

<渋滞>
 町は12日午前10時ごろ、町民を津島地区に集団避難させる方針を決めた。第1原発から約30キロ北西にあり、町内で最も離れていたからだ。
 役場から津島地区へつながる国道114号は避難者の車で埋め尽くされた。同町の無職横山洋子さん(70)は「普段なら20分で着くのに4時間かかった」と振り返る。
 元東電社員の男性(75)は家族を捜すため渋滞と反対方向に車を走らせた。対向車線の車列に並ぶ知人から「原発が爆発する」と忠告されたが、「ばか言ってんじゃない。原発は安全だ」と相手にしなかった。
 津島地区には地元住民の6倍近い約8000人の町民が押し寄せた。小中学校や高校は避難者であふれかえった。学校に入れなかった人は民家で世話になったり、車中泊したりした。

<放出>
 津島地区は上下水道が整備されていない。13日夕に支援物資の水が届くまで、井戸水や沢水で炊いた米で作ったおにぎりが支給された。畑には土を掘り起こしただけのトイレが幾つもできた。
 避難者は二本松市に再避難する15日まで津島地区に滞在した。その間、第1原発は12日に1号機、14日に3号機が水素爆発。15日に2、4号機も爆発し、大量の放射性物質が大気に放出された。
 放射性物質は風で津島地区のある北西方向に運ばれた。2〜4号機が爆発した14、15日は雨と雪に見舞われ、放射性物質を付着させながら降り注いだ。
 避難者は自分が放射性物質に襲われることを認識できないでいた。「国や東電から何の情報も来なかった」(馬場町長)からだ。
 避難者が情報の枠外に置かれたまま、津島地区の放射線量は見る見る上がった。文部科学省が15日夜に津島地区で測ったモニタリングカーの計器は毎時270〜330マイクロシーベルトを指し示していた。=2011年11月9日、河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年03月10日金曜日


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