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<回顧3.11証言>市役所屋上 命のとりで

震災から8カ月以上たって大量のがれきも一部片付き、被災した建物だけが残された陸前高田市役所=2011年11月22日、岩手県陸前高田市

 東日本大震災で岩手県陸前高田市の市街地に押し寄せた津波は高さ13メートルを超え、全域をのみこんだ。市の指定避難所に避難しながら、犠牲になった人も少なくない。市役所に避難した市職員や市民は、3階、一部4階建ての屋上にまで津波が到達する極限の状態に追い込まれた。(坂井直人、山口達也)

◎陸前高田 避難所で多数の犠牲者

<浸水>
 「自分は生かされた。だからこそ復興を成し遂げないといけないと思う」
 陸前高田市で2011年11月19日あった市職員の慰霊祭。参列した企画政策課秘書係長の村上知幸さん(41)は静かに手を合わせ、心に強く誓った。
 11年3月11日、津波は全職員の3分の1近い113人の命を奪った。
 村上さんは地震直後、市役所前の駐車場に出た。近くの福祉交流施設の外にいた高齢者を避難させるため、同僚3人と向かった。座り込んでいた女性を抱えて庁舎に戻った午後3時27分ごろ、市役所1階が浸水した。
 津波に追い上げられるように、夢中で屋上まで階段を駆け上った。同僚2人の姿はなかった。

<濁流>
 「ゴー、ゴー」。黒い濁流が激しくぶつかる。水かさが増す中、屋上には市職員や市民ら計124人が避難していた。
 「もっと上に!」。職員らは助け合って垂直のはしごを上り、さらに高い受水タンクや4階部分に移った。「最後のとりで」だった。
 水没する市街地。巨大な渦。ボンベがガス漏れの音を立て、火の付いたがれきと漂う。「さらに高い波が来たら」「爆発したら」。募る緊張と不安。市嘱託職員の臼井佳香さん(32)は「生きた心地がしなかった」と振り返る。
 財政課主任主事の黒沢裕昭さん(34)は屋上で、津波が街を襲う光景を見た。
 津波は1.5キロ先の高田松原の松林をのみ込んだ。さらに国道45号の車両を襲い、家々を壊しながら迫る。
 「津波が来てるぞ。逃げろ」。黒沢さんは眼下に向かい叫び続けた。「迫る波に比べ避難のスピードが遅く、『間に合うか』と焦った」

<隙間>
 市役所向かいの市民会館。市の指定避難所で、市民ら70〜80人が避難したが、助かったのは十数人だけだったという。
 市職員組合書記の宮本幸代さん(49)は、避難した最上階の3階会議室で津波に襲われ、十数メートル先の会館内の倉庫に流された。館内は丸ごと浸水したが、天井との隙間で呼吸ができ救われた。
 「最初に避難した公園で、市民会館という声が耳に残った。一緒にいた仲間は亡くなった。なぜ私だけが…」。宮本さんは声を詰まらせる。
 午後6時半ごろ、水がある程度引いた。市役所屋上にいた人たちは、4階部分に集まった。雪が降る中、ストーブやろうそくで耐え忍んだ。声はなく、波の音だけが建物に響いた。
 翌早朝、屋上に避難していた戸羽太市長(46)をはじめ一部職員が先発隊となり、自衛隊らが集結し救助の拠点となっていた市学校給食センターに向かった。
 がれきで埋め尽くされ、道路も分からない街を泥だらけで歩いた。普段なら約20分の距離を約1時間かけてたどり着き、ようやく市災害対策本部が設置された。
 それから8カ月。職員はプレハブ庁舎で、失われた同僚を思い、復興に向け力を尽くしている。=2011年11月23日、河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年03月12日日曜日


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