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<回顧3.11証言>使命感胸に飛び立つ

1回目の空中消火に備え、大型水槽車から400リットルの給水を受ける仙台市消防局のヘリ=2011年3月12日午前0時すぎ、若林区の陸上自衛隊霞目駐屯地(同広報室提供)

 東日本大震災発生から9時間半後の昨年3月12日午前0時15分、仙台市消防局のヘリコプターが闇の中へ飛び立った。向かう先は宮城野区の中野小付近。工場や家屋が炎上し、校舎に避難した約600人が延焼の恐怖におびえていた。夜間の空中消火はリスクが大きく、国内で前例がない。出動は、現場の切迫感と消防の使命感に突き動かされた極限の選択だった。(阿曽恵)

◎仙台市消防ヘリ、夜間の空中消火

<集中>
 コックピットに座る操縦士及川芳哉さん(51)はかつてない緊張にとらわれていた。地上は停電で真っ暗闇。計器は方角や高度を示している。しかし、距離感も平衡感覚もつかめない。
 ヘリの操縦かんは繊細だ。車のハンドルと違って「遊び」がなく、1ミリの動きで機体が数メートル移動する。一つのミスが命取りになりかねない。
 上空を進むと、仙台港の石油コンビナートが燃え盛っていた。6、7件の小規模な火災も見える。「目標の火災はどれだ」。副操縦士、2人の整備士と見定めに集中した。
 離陸の約1時間前−。中野小で避難所の運営に当たっていた地元の西原町内会長大和田哲男さん(68)は、校舎の約200メートル北西で起きた工場火災に神経をとがらせていた。
 風向きが変わり、煙と炎が迫る。学校には給食用のガスボンベがあり、引火して爆発する恐れもあった。「何とか消火してくれ」。学校備え付けの防災無線を通じ、消防に幾度も訴えた。

<即答>
 青葉区の消防局5階の警防本部は困惑しきっていた。中野小付近はがれきや車が積み重なり、消防車両が入れない。警防課主幹渡辺智浩さん(51)は「まさに陸の孤島。ヘリでの消火しか手段がなかった」と言う。
 荒浜航空分署(若林区)は津波で壊滅した。間一髪で被災を免れたヘリ2機は陸上自衛隊霞目駐屯地(同)に移し、分署の隊員は若林消防署に詰めていた。
 警防本部からヘリ出動の打診を受けた分署長菅原義美さん(57)が及川さんに声を掛ける。「空中消火、やれるか」。「やってみます」。即答した。ほかのクルー3人もうなずいた。
 及川さんを決断させたのは、豊かな飛行経験に裏打ちされた自信だ。霞目や中野地区は航空分署に近く、障害物となる高い建物や送電線の位置をつぶさに把握している。「被災者の心中を思えば、行くしかない」。消防人としての使命感も背中を押した。

<安心>
 機中の隊員は対象の火災をようやく特定できたが、高度90メートルからの消火に失敗した。水は霧状に拡散し、地上まで届かない。ヘリは駐屯地に給水に戻り、高度を下げて消火を試みるため再び飛び立った。
 若林消防署で待つ菅原さんは「生きた心地がしなかった」という。脳裏に浮かんだのは2010年7月、埼玉県の防災ヘリが墜落し5人が死亡した事故。参列した合同慰霊祭で、航空機事故の悲惨さが胸に刻み込まれた。「住民も隊員も津波から助かった命。二次災害を避けて、きっとやり遂げる」。そう信じ続けた。
 ヘリは60メートルに高度を下げて消火を続けた。繰り返すこと3回、ようやく火勢が衰えた。活動を見届けた西原町内会長の大和田さんは「ヘリが来てどんなにうれしかったことか。みんなホッとした」と振り返る。
 午前1時35分、ヘリは霞目駐屯地に着陸した。緊張が凝縮した80分間のミッション。関係者に安心感が広がった。だが休息はつかの間、夜明け前には救助出動が控えていた。(肩書は当時)=2012年5月28日
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2017年03月18日土曜日


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