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<災害公営住宅>南三陸に帰郷 仲間の力に

見学用に開放された災害公営住宅の部屋で畳の感触を確かめる宮川さん=20日午前11時ごろ、宮城県南三陸町

 宮城県南三陸町が整備する災害公営住宅で最後となる志津川中央復興住宅が20日、完成した。東日本大震災後、宮城県登米市の仮設住宅で6年近く過ごし、27日に入居予定の宮川安正さん(77)は落成式であいさつし、「この日を首を長くして待っていた」と言葉を詰まらせた。
 宮川さんは20日、見学用に開放された3DKの部屋に入った。「畳だ。やっぱり俺は日本人だな」とうれしそうに話し、畳の上に座り、寝転んだ。「仮設住宅は畳がなかったからね」
 地震発生時は町内の国道45号を運転中だった。一緒にいた妻弘子さん(71)と帰宅し、家の中を片付けていると津波襲来の情報が入った。津波が背後に迫る中、車で避難し、何とか高台へ逃げ切った。自宅があった地域は津波にのまれた。
 宮城県栗原市の避難所生活を経て2011年6月、登米市南方町の仮設住宅に入居。町から頼まれ、約200世帯あった南方仮設住宅第1期自治会の会長に就いた。
 心を砕いたのは住民間の親睦を深めること。孤立者が出ないようボランティアの力を借り、バーベキューや餅つき、音楽演奏を企画した。毎回、イベントのあいさつで宮川さんは「古里が復興するまで力を合わせよう。一緒に元気で帰ろう」と涙ながらに訴えた。
 郡山市生まれ。5歳だった終戦の年、母の実家があった南三陸町志津川に疎開した。仙台市のクリーニング店で修業した7年を除き、志津川で暮らした。26歳で理容師の弘子さんと結婚。クリーニング店と理容店を併設した店舗を開き、2人の息子を育てた。
 仮設住宅では生活が苦しい住民や、健康に不安を抱えるお年寄りを気遣ってきた。「仮設を出られない仲間がいる。力にならなければ」と宮川さん。これからも足しげく通うつもりだ。
 被災したクリーニング店は廃業した。同町で理容店を続けた弘子さんを登米市から車で送迎する日々が続いたが、間もなく終わる。
 全国から訪れた支援者の名刺は約500枚。「感謝の気持ちを伝えたい」。今後はゆっくり、一人一人に手紙を書く予定だ。


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2017年03月21日火曜日


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