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<りんごラジオ6年>苦い思い 突き動かす

開局直後のりんごラジオのスタジオ。町役場には家族の安否を確認する町民らが大勢詰め掛けていた=2011年3月21日(りんごラジオ提供)

 東日本大震災発生の10日後に開局した宮城県山元町の臨時災害FM局「りんごラジオ」が、今月末で閉局する。町の被災状況や生活情報を発信した当初から一貫しているのは、より多くの住民の声を伝えるという姿勢だった。復興に向かう町民の息遣いを伝え続けた6年を振り返る。(亘理支局・安達孝太郎)

◎災害FM いつもそばに(中)原点

<必要性訴え>
 「コールサインJOYZ2WFM、周波数80.7メガヘルツ、出力30ワットでお送りします。ただ今午前11時、山元町のみなさんのためのりんごラジオが開局しました」
 2011年3月21日、高橋厚局長(74)のあいさつでりんごラジオはスタートした。町役場1階の臨時スタジオ前は、東日本大震災の津波で被災した家族の安否を確認する町民らであふれていた。
 当時、宮城県内の震災報道は三陸の沿岸部ばかりが際立ち、町民は町の状況をほとんど知らなかった。「災害時には正確な情報が欠かせない」。元東北放送アナウンサーの高橋さんは町に開局の必要性を訴え、すぐに手続きに入った。
 震災発生10日後の放送初日は、町民の死者・行方不明者数を伝えた。斎藤俊夫町長らが出演し、町の状況を報告。町民のインタビューも盛り込んだ。
 突き動かされるように行動した高橋さん。ある苦い思いを抱える。
 05年ごろ、山元と隣の亘理の両町を放送地域とするコミュニティーFM局開設の動きがあった。開局の狙いには災害時の情報発信もあった。03年に東北放送を定年退職し、仙台から山元に移り住んだ高橋さんもグループに加わっていた。
 05年10月に「災害とコミュニティーFM」をテーマに掲げたシンポジウムが実現し、高橋さんが司会を務めた。新潟県中越地震を経験した長岡市のFMながおかの脇屋雄介放送局長(現社長)らを交え、災害時にラジオが果たす役割を語り合った。
 だが、資金面などの問題で機運は盛り上がらず、話は立ち消えになった。町の震災犠牲者は637人を数えた。「あの時、地域に根差したラジオがあれば、救えた命があったかもしれない」。高橋さんは悔やむ。
 ただ、シンポは無駄ではなかった。震災直後、FMながおかの脇屋社長が放送機材を届けてくれたからだ。

<自然な流れ>
 16年11月22日午前5時59分に福島県沖で発生した地震では、県沿岸部などに津波警報が出た。跳び起きたスタッフはスタジオに駆け付け、午前6時20分に放送を開始。
 高橋さんの妻でスタッフの真理子さん(67)は「震災のような犠牲はもう出したくないという思いを、ラジオのみんなで共有している」と言う。
 高橋さんは現役時代に1978年の宮城県沖地震に遭い、地域密着の情報を流し続けた。「赤ちゃんのミルクがない」「毛布が足りない」といった県民らの声を伝えると、放送局に支援物資の提供申し込みが相次いだ。
 高橋さんの元部下でりんごラジオを手伝う森雅一郎さん(69)=仙台市太白区=は言う。「発信すれば反応が返ってくる。宮城県沖地震でそれを肌身で感じた高橋さんがりんごラジオを立ち上げたのは、自然な流れだったのかもしれない」

[りんごラジオ]2011年3月21日、災害時に被害状況や避難所の情報などを提供する公設民営の臨時災害FM局として宮城県山元町が役場内に開設。同年7月に役場敷地内のプレハブに移った。スタッフは11人。年間運営費約1500万円は国の交付金が充てられた。町は復興が一定程度進んだとして、閉局を決めた。コミュニティー放送への移行が検討されたこともあったが、りんごラジオ側が事業費確保が難しいとして辞退した。


2017年03月28日火曜日


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