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<復興を生きる>イチゴ栽培 妻の苦悩に光

イチゴ畑で笑顔を見せる弘一さん(右)と陽子さん

◎3・11大震災/支え合い二人三脚で イチゴ農家 森弘一さん・陽子さん=宮城県亘理町

 手探りで始めたイチゴ栽培が間もなく3シーズン目を終える。宮城県亘理町の森弘一さん(55)と、看護師の仕事の傍ら手伝う妻の陽子さん(56)。少しずつ農業が板に付いてきた2人の歩みは、陽子さんが東日本大震災で抱えた胸の苦しみを和らげていく道のりでもあった。
 今月中旬、弘一さんは町内陸部にある逢隈地区のハウスで収穫の追い込みに入っていた。病院が休みだった陽子さんはいつものように出荷を手伝う。「去年より粒がそろっているみたい。お父さん、慣れてきたのかな」。一粒一粒を丁寧にパック詰めした。
 弘一さんは2013年7月まで製造業に従事していた。徹夜も珍しくない激務に心身の限界を感じ、脱サラを決意した。
 「農業もいいんじゃない?」。会社を辞める数カ月前、陽子さんが口にした。10年前に亡くなった父親は野菜作りが趣味で、子どもの頃、一緒に収穫を楽しんだ。農作物を育てることが何かの救いになるかもしれない。そう考えた。
 あの日、陽子さんは名取市閖上の高齢者施設で働いていた。避難が遅れ、入所者と津波にのまれた。室内で木の葉のように回った。
 奇跡的に助かった陽子さんは、がれきから助けた入所者や流れ込んで来た人々の心臓マッサージを一晩中続けた。だが、寒さもあり、油まみれの数十人が目の前で次々と絶命した。失血がひどかった若い女性は「4月から先生になるの」と言って息を引き取った。
 11年4月、陽子さんは違う事業所で医療現場に戻った。「最初は頑張ろうと思った」。でも一段落すると気持ちが落ちていった。「私だけ生きていいの?」。家族に問い掛けた。
 農業なら家族でいる時間が増える。支え合って生きていこう−。弘一さんが陽子さんの提案に乗ったのはそんな思いがあったからだった。亘理ならイチゴ。すぐに、新規就農のための相談機関を訪れた。
 農協などから紹介を受けて農家で研修を積み、14年に土耕栽培のハウスを借りることができた。1年目は14アールに苗1万本を植えた。慣れない肉体労働はきつかったが、陽子さんは夜勤明けでも手伝ってくれた。その年の12月、形は少々いびつだが、真っ赤なイチゴがなった。
 繁忙期には友人や知人のつてで頼んだボランティアも手伝ってくれた。2年目には次男が仕事を辞めて合流し、すぐに長女も加わった。今シーズンは22アールを作付けた。
 陽子さんの苦しみはまだ残る。それでも「イチゴをやる前は闇の中だった。今は道が開けた気がする」と言う。阿武隈川のそばにあるハウスを一歩出ると、初夏の風が頬をなでる。小さなイチゴ畑で、家族は新たな歩みを始めた。(亘理支局・安達孝太郎)


2017年05月31日水曜日


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