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<大川小保存>「何のため」熟議不可欠

震災遺構として保存される大川小。声を上げられない人の心情をくみ取る努力も求められる=2016年2月11日

 東日本大震災の津波で児童と教職員計84人が犠牲となった宮城県石巻市大川小の遺構保存を巡り、市は6月に正式な整備方針を決める。主にハード面は一定の方向性が見えつつあるが、ソフト面はまだまだの感がある。「教訓の伝承」の一言では済まされない。校舎やその周辺をどう生かし、命を守るためにどんな教訓をいかように伝承していくか。核心の熟議なしには保存の意義が薄れる。
 整備方針案は5月の住民説明会で示された。震災伝承エリアと慰霊・鎮魂エリアを整え、両エリアを植栽で仕切る。校舎は沿道から見えないように工夫する。「静かに手を合わせたい」「校舎を見るのがつらい」などと思う人々にも配慮した跡がうかがえる。
 津波に見舞われた校舎は教室の床が盛り上がり、廊下の上着掛けには児童一人一人の名前を記したシールが残っている。約4キロ離れた海から北上川をさかのぼった津波の脅威、児童たちが生きた証しを肌で感じ取れる。
 学びやはいわば、「形ある語り部」だ。安全対策やガイドの同行といったルールを作り、財源を確保してぜひ、校舎内部を公開してほしい。
 2011年3月11日。地震発生から約45分間、教員が児童を校庭に待機させた後、津波襲来直前、児童らが向かったのは北上川の方角だった。校舎が立つ釜谷地区では住民も約4割が犠牲になった。
 整備方針案は「慰霊・鎮魂と避難の重要性を忘れないための場所」と位置付ける。そうであるならば、避難の遅れや川へと移動した理由の解明は、防災の教訓を導く上でも大事なことだろう。
 亀山紘市長は、遺族らが市と宮城県の過失責任を問う損害賠償請求訴訟を提起していることを踏まえ「裁判に関わる部分の話し合いは難しい」と線を引く。
 その一方で、境遇を超えて事実を重く受け止め、伝承に力を入れる動きもある。大川小2年の担任だった父親=当時(55)=を亡くした佐々木奏太さん(21)は昨年12月から、児童遺族らと共に語り部をする。
 「何げない日常生活が送られていた学校で、命が失われてしまった。その事実に向き合っていかなければならない」。そんな佐々木さんの訴えは、聞く人の心にずしりと残る。
 教訓や伝承を考える上で、他の遺構や災害の関係者に学ぶことも多い。
 広島市の原爆ドームで昨年8月6日、地元の若いガイドから聞いた言葉が忘れられない。「『一瞬で焼け野原になった。悲しい』だけでは済まない。何があったかを知り、同じことが起きないよう伝えることが大切だ」
 15年にはイタリア北部地震(12年)の被災地で、幼児教育に携わる女性から「過去を有効に使いながら未来を考えるべきだ」と教えられた。女性は幼児に被災現場を見聞きさせ、隠れる場所の絵を描かせたという。
 大川小の被災校舎には今、国内外から多くの人々が訪れる。夢や希望を抱いていた児童の命、遺族の悲しみ、学びやを寄る辺としていた住民らの思い…。それらを無駄にしないためにも、関係者の思いや知見を丁寧にくみ取り、生かすすべを考えていく必要がある。(石巻総局・水野良将)

[石巻市大川小]東日本大震災の津波で児童108人のうち70人が亡くなり、4人が行方不明、教職員13人のうち10人が死亡した。校舎は1985年に完成。住民でつくる大川地区復興協議会は2015年5月、全体保存を市に要望し、亀山紘市長は昨年3月に全体保存を表明した。児童は現在、二俣小の敷地に整備された仮設校舎に通う。大川、二俣両小は18年4月に統合し、統合後の校名は「二俣小」となる。


2017年06月05日月曜日


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