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<復幸の設計図>「民設民営」 自ら道を開拓

「民設民営」で整備したコンテナ村商店街=2015年6月

 東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城県女川町は、独自の手法でゼロからまちを築いてきた。震災から6年余り。中心部の商店街には起業した人々が定着し、多くの交流人口を呼び込む。それを可能にしたのは何か。公民が手を携えたまちづくりの歩みを検証する。小さな港町の希有(けう)な挑戦と教訓を「未災地」に伝えたい。(石巻総局・関根梢)

◎女川・公民連携の軌跡 第1部・萌芽(4完)

 東日本大震災でダメージを受けた女川町で、民間事業者による女川町復興連絡協議会(FRK)は復興計画を練る傍ら、町の再生を見据えて策を考えた。
 2011年5月4日、女川高グラウンドで開いた「復幸市」は、商業再生の第一歩となった。仕掛け人の一人が、新聞販売店店主でFRK町づくり創造委員長の阿部喜英(48)。4月上旬から、町商工会の青山貴博(44)と共に構想を練っていた。
 復幸市のルールは「原則無料配布はしない」。震災からまだ2カ月足らず。全国から多くの支援物資が寄せられていた。そんな中で、阿部は「客からお金をいただくのだから、それなりの商品をそろえてほしい」と出店者らに要請した。
 事業者らは、約2カ月ぶりの仕事に心が躍った。塩釜までマグロの買い付けに出向いた者もいた。
 町外の事業者の協力も得て復幸市は盛況を呈して幕を閉じる。この復幸市を契機として、飲食店などの事業者らが顔を合わせる場が増えた。「店を早く再開したい」。そんな声に応えようと、仮設商店街を整備する動きが本格化した。

 用地確保の壁にぶち当たった。中小企業基盤整備機構の支援を活用して仮設商店街を構えるには、建築基準法などをクリアできる広さの土地が必要だった。牡鹿半島の付け根に位置する女川町は元々、平地が少ない。被災を免れた比較的広い土地は、仮設住宅の建設などに充てられていた。
 阿部らは要件に見合う土地を探し、中小機構に支援を申し入れた。しかし、思いはかなわなかった。「現地を見た担当者に『この場所は規格に合わない』と一蹴された」。阿部は当時を振り返る。

 ではどうするか。模索していた時に、手を差し伸べてくれたのが国際NGO「難民を助ける会」。町を通してコンテナ10棟を譲ってくれるという。
 コンテナで自分たちで商店街をつくったらどうか。既存の制度の枠で無理ならば、自分たちでやるしかない。11年6月中旬にコンテナを町中心部に搬入。「民設民営」の仮設商店街が7月1日、開業する。
 「コンテナ村商店街」には生花店や飲食店など8店舗が軒を連ねた。商店街は以来、JR女川駅前のテナント型商店街「シーパルピア女川」の開業が1カ月後に迫る15年11月まで営業を続けた。
 8店舗は現在も町内で事業を継続する。うち5店舗はシーパルピアに新しい店を構えた。
 自らが道を切り開く。コンテナ村商店街は、その後の町づくりの思想の基盤となった。(敬称略)


2017年06月28日水曜日


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