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<復幸の設計図>二つの計画 再生の両輪に

FRKが作り上げた復興計画。100年先を見据え「住み残る、住み戻る、住み来たる町」のグランドデザインを示した

 東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城県女川町は、独自の手法でゼロからまちを築いてきた。震災から6年余り。中心部の商店街には起業した人々が定着し、多くの交流人口を呼び込む。それを可能にしたのは何か。公民が手を携えたまちづくりの歩みを検証する。小さな港町の希有(けう)な挑戦と教訓を「未災地」に伝えたい。(石巻総局・関根梢)

◎女川・公民連携の軌跡 第1部・萌芽(3)

 東日本大震災からの復興を目指し、女川町で2011年4月に発足した民間による町復興連絡協議会(FRK)はまちづくりの一翼を担う。
 女川出身で、後にFRK戦略室長に就いた黄川田喜蔵は震災直後の3月下旬、既に女川町の未来図を描いていた。「女川町復旧復興プログラム起案」と題されたペーパーは全6章から成る。
 そこには、町の復興計画に住民参加の道筋をつける案などが記されていた。FRKの若手で、新聞販売店店主の阿部喜英(48)や町商工会の青山貴博(44)らがこの起案をたたき台に町づくり策を練った。

 FRKは11年11月、「町復興計画の基本理念」を打ち出す。100年後を見据えたコンセプトは「人々が住み残る、住み戻る、住み来たる町」。そんな町をどう築くのか。盛り込まれた内容はソフト面が主眼となった。
 中心街区については、町が土地を買い上げるなどして管理する。そこに建てる施設は商工業者による町づくり法人が運営を担う。そんな公設民営方式を導入する。観光・商工・水産業が連携し、相乗効果を生み出すシステムを取り入れる−。
 こうした案を盛り込んだ計画をFRKは12年1月、町と町議会に提示した。
 町議会も、商工業者らによるFRKの動きに注目していた。
 震災対策特別委員長を務めた木村公雄(80)が振り返って言う。「町民一人一人の意見をすくい上げるのが議員の役割だ。しかし、震災直後の混乱では、とても手が回らなかった」
 産業界の各団体を横串にして、多くの事業者が参画するFRKは一つの民意の総体ともいえた。議員らは11年5月から、FRKとの意見交換会を重ねた。
 基本理念を練った青山は必死だった。町の施策に自分たちの考えを反映させるには議会の議決が必要だ。「一度否決されたら、再び議会の俎上(そじょう)に上がるのは難しい。それが分かっていたから、懸命に説明した」

 一方で、町は復興計画の策定を急いだ。
 町は11年4月に復興対策室を設置。5月には有識者らによる復興計画策定委員会を発足させ、「新しい女川」の設計図を描く。
 9月にできた町復興計画は、復興期間を18年度までの8年間と設定。町中心部の土地利用ゾーニングや離半島部の高台移転など、それは主に復興のハード面が中心であった。
 民と公が作り上げた二つの復興計画を携え、女川は一歩を踏み出す。行政と産業界、議会、町民が一体となった「四輪駆動」で、復興への坂を上り始めた。(敬称略)


2017年06月27日火曜日


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