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<復幸の設計図>まちの将来像 若者が描く

産業の再生を軸とした復興計画を須田町長(左)に渡す高橋会長=2012年1月

 東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城県女川町は、独自の手法でゼロからまちを築いてきた。震災から6年余り。中心部の商店街には起業した人々が定着し、多くの交流人口を呼び込む。それを可能にしたのは何か。公民が手を携えたまちづくりの歩みを検証する。小さな港町の希有(けう)な挑戦と教訓を「未災地」に伝えたい。(石巻総局・関根梢)

◎女川・公民連携の軌跡 第1部・萌芽(2)

 東日本大震災から1カ月余りの2011年4月19日、女川町内に立つプレハブの会議室。民間団体による「町復興連絡協議会」(FRK)の設立総会で、商工会長の高橋正典(66)は約70人の出席者を前にこう切り出した。
 「これからのまちづくりは30、40代の若者に託す。還暦以上は口出しするな」
 同席した観光協会長だった鈴木敬幸(故人)も同じ思いだった。当時、高橋は60歳、鈴木は59歳。町の産業界を束ね、民間による復興を打ち出した2人は第一線から退く覚悟を示したのだ。

 突然の「世代交代宣言」。若者たちは戸惑った。親世代が主導するイベントなどに協力することはあっても、腰を据えてまちづくりに取り組んだ経験はない。動揺する若手に、高橋は続けた。
 「若者の新しい考えで町をつくってほしい。それは君たちのためであり、将来の子どもたちのためだ」「困った時には年長者が弾よけになる。全面的に協力する。やりたいようにやってほしい」
 長年にわたり産業界を支えてきた他の重鎮らも異論はなかった。壊滅状態になった町の復興には10年、20年の長い年月が要る。それは誰の目にも明らかだったからだ。

 大先輩らの後押しを受けた若者たちは、手探りで、しかし猛スピードで、復興への道を走り始めた。
 FRKの活動拠点は2階建てのプレハブだ。1階には商工会、観光協会、魚市場買受人協同組合、水産加工業協同組合の4団体が肩を寄せ合うように「同居」した。
 震災前、イベント運営などで協力し合うことがあったが、詳細な業務内容は互いに知らない。狭いプレハブでは、それぞれのやりとりが筒抜けだ。
 復興のキーマンの一人、商工会の青山貴博(44)は当時を振り返って言う。
 「団体の垣根を越えて、一つの組織体として機能するようになった。狭いプレハブで約1年間を一緒に過ごしたことで、事象に応じて適任者を選び、みんなが勝手に協力していく今の女川の形ができた」
 FRKは高橋を会長に据え、まちづくりや水産、商業などの分野別に五つの委員会を設けた。顧問には各団体のトップらが名を連ねる。
 当時県議だった須田善明(45)も顧問としてFRKに参画した。当時38歳だった須田は、復興の中核を担う同世代と意見を交わしながら、町の将来像を思い描いていた。
 そして11年11月。震災直後の混乱を乗り越えた66歳の安住宣孝から、須田は無投票で町長の椅子を引き継ぐ。世代交代が町の復興を推し進める原動力となった。(敬称略)


2017年06月26日月曜日


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