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<復幸の設計図>事業の再開 遅れに危機感

津波で壊滅状態になった女川町中心部=2011年3月13日

 東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城県女川町は、独自の手法でゼロからまちを築いてきた。震災から6年余り。中心部の商店街には起業した人々が定着し、多くの交流人口を呼び込む。それを可能にしたのは何か。公民が手を携えたまちづくりの歩みを検証する。小さな港町の希有(けう)な挑戦と教訓を「未災地」に伝えたい。(石巻総局・関根梢)

◎女川・公民連携の軌跡 第1部・萌芽(1)

 女川町商工会長の高橋正典(66)は2011年3月11日、出張先のミャンマーで震災の発生を知った。
 衛星放送では仙台空港に津波が押し寄せる映像が映し出されている。会社に電話をかけても通じない。丸一日テレビにかじりつき、家族や従業員、町民らの無事を願った。「生きていてくれ」
 飛行機を乗り継いで女川に帰ったのは震災から3日後、14日の深夜。見慣れた景色は、がれきの山と化していた。
 女川湾に面する人口約1万人の港町を濁流がのみ込んだ。最大津波高は14.8メートル、遡上高は34.7メートル。人口の8.26%にあたる827人が死亡・行方不明になった。人口に占める犠牲者の割合は被災自治体の中で最も高い。全壊、大規模半壊の住家は69.7%に上り、町中心部は壊滅状態となった。

 町に戻った高橋は、町観光協会長だった鈴木敬幸(今年6月死去)と共に町災害対策本部に出席するようになった。
 刻一刻と変わる状況への対応に追われる町職員。会議は町民の安否情報や救援物資の受け入れ状況などを伝えるのに終始した。
 被害の大きさを鑑みれば、当然のことである。しかし、高橋と鈴木の2人は危機感を募らせた。事業の再開が遅れれば、得意先や従業員を失いかねない。時間の経過に比例して再起困難になるのではないか−。
 「自分たちのことは自分たちでやらなければいけない。民間事業者の再生と、将来のまちづくりを考える組織が必要だ」
 復興を推し進める新しい組織を発足させよう。2人は震災から約1週間後、そんな方針を打ち出した。
 「生き残った者を集めてこい」

 2人の指示を受け、町商工会の青山貴博(44)と新聞販売店店主の阿部喜英(48)は避難所などを回り、町の将来を案じる事業者らをかき集めた。
 4月1、2の両日、商工業や水産業に従事する事業者らは高台にある女川一中の図書室に集まった。「われわれが自力で復興を目指すべきだ」。そう確認し合った。
 そして4月19日。町復興連絡協議会(FRK)が発足する。商工会、観光協会、魚市場買受人協同組合など町の産業を支える団体が業種の垣根を越えて手を組んだ。
 がれきが残る町で、高橋と鈴木の危機感から生まれたFRKは新たな町を開く萌芽(ほうが)となった。(敬称略)


2017年06月25日日曜日


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