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<仙台いやすこ歩き>(61)支倉焼/心までしっとり癒やし

 いやすこは時々河北新報社へ行く。と、必ずというほど「お店の前を通ると誘われちゃうのよね、ほのかなあのにおい」となるのだ。それが昼下がりだとたまらない。何せ、仙台っ子の極上おやつなのだから。
 今回の2人はJR仙山線に乗って、仙台市青葉区愛子へ。ここにはあの支倉焼の本社工場がある。迎えてくれたのは、有限会社ふじや千舟・代表取締役社長の佐藤明子さん(63)。「河北新報社さんの近くにあるのは本店なんですよ」と教えてくれた。25年前に愛子の工場ができるまでは、本店に工場があったそう。
 高橋利忠工場長(52)の案内で工場へ。中では、若い人からベテランまで支倉焼製造の真っ最中。奥の工房では白あん作り。大きな撹(かく)拌(はん)機が回り、白インゲン豆、クルミなどの材料が練られている。そのそばで職人さんが包丁でクルミを刻む。まな板はクルミが飛び散らないように工夫された囲い付きで、昔から引き継がれているそう。熱が加わるほどに、あんがマグマのようにぶくぶくと泡立つ。独特の白あんは、こうして生まれるのだ。
 フレッシュバターと卵を使った洋風生地を一つ一つ手で丸め、絶妙な加減で白あんを包み込んでいく。それを木型に入れ、形を整えながら「支倉焼」の文字を浮かび上がらせる。職人技の連続だ。「皆さんの手の動きが速くて写真が撮れない」と画伯。速い上に、なんて優美な動きなんだろう。
 ここからがまた大切な、焼きの工程。オーブンで焼き上がると、風を当て、さらに1日置くことで、あのしっとりとした支倉焼になるのだそうだ。「どの工程も、目と手と勘で確認していかないと、良いお菓子はできません」と工場長。それは包装作業でも同じだった。
 改めて支倉焼誕生の話を伺う。元々は、戦後の焼け野原に初代の佐藤長清さんがたばこ屋さんを創業。菓子も販売したのをきっかけに、工場を併設して菓子作りを始めた。長清さんは、今までにないお菓子をと考え、生まれたのが支倉焼だ。
 「和菓子職人さんと洋菓子職人さんが一緒に開発に携わったのですが、プライドもあって、よくけんかもしたそうですよ」と、笑顔で話す佐藤社長。1958年に誕生した支倉焼は評判となり、63年に長清さんは一つの英断を下す。手を広げ過ぎて間に合わせの品を売るのでは申し訳ない、「これ一品でいく」と決めたのだという。
 そうした思いは脈々と受け継がれ、工場の職人さんの顔にも表れているよう。一心で、どこか厳かさが漂うのだ。「うちの企業秘密は『人』なんですよ」と佐藤社長。その隣で工場長も、副工場長の菅井香奈さん(27)もにこにこ。通常の数倍大きい特製支倉焼(大と中)は工場長のアイデアだ。
 その時、目の前に出された「焼きたてです」の支倉焼! いつも味わっているのより外はサクサクで、中のあんの上品さは同じ。心までしっとり癒やされていく。「みんなで食べ方を話し合って盛り上がっているんですよ」と菅井さん。支倉焼愛が伝わってくるひととき。なんだかとっても幸せ気分で帰途に就いた。

◎仙台藩の遣欧大使に由来

 支倉焼の名は、江戸時代初期に伊達政宗がローマへ派遣した仙台藩士、支倉常長にちなんでつけられた。
 支倉常長は1571年、武士の次男として生まれ、伯父支倉時正の養子となる。鉄砲組頭、足軽組頭を経て、文禄の役では伊達政宗に従い朝鮮半島へ従軍。実父の切腹、家(か)禄(ろく)召し上げなどの試練を20代で経験した後、43歳の時、遣欧使節の大使に抜てきされる。
 1613年9月、政宗の親書を携え、宣教師ソテロと共に約180名を率いて仙台藩建造の洋式帆船サン・ファン・バウティスタ号で出航。スペイン国王、ローマ法王への謁見を果たすが、その間日本国内ではキリシタン弾圧が進み、その情報が法王に届き、親書は手渡せたものの返答は得られなかった。
 20年に帰国後は資料が乏しく、その死や墓所については諸説ある。1873年に明治政府の岩倉使節団がイタリアで支倉の署名入り文書を見つけ、再び世に知られるようになった。
 常長はマドリードで受洗し、洗礼名はドン・フィリップ・フランシスコ・ファセクラ。
 
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 土地には、その土地ならではの食があります。自他共に認める「いやすこ(仙台弁で食いしん坊のこと)」コンビ、仙台市在住のコピーライター(愛称「みい」)とイラストレーター(愛称「画伯」)が、仙台の食を求めて東へ、西へ。歩いて出合ったおいしい話をお届けします。
=次回は24日掲載=


2017年07月03日月曜日


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