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<復幸の設計図>女川・公民連携の軌跡 第2部・再生(4完)ゼロからの町 柔軟、大胆に

町を二分していた堀切山。現在も造成工事が進む

 2011年11月。無投票で女川町長の椅子に座ったばかりの須田善明(45)は、机上に広げられた図面を前に考え込んでいた。
 9月に策定した町復興計画を基にコンサルタントらが作成した都市計画の資料だった。東日本大震災で被災し、ゼロから町をつくらなくてはならない。図案ではJR女川駅南側、町中心部近くにあり、硬い岩盤から成る堀切山が町を二分していた。

 「震災前の女川は住宅が連なり、それが町民のつながりを強くしてきた。町が分断される構造はどうかと思う一方、復興に向けて半年以上積み上げてきたものを変えることにためらいもあった」
 須田は当時の心境をそう打ち明ける。その夜のうちに担当職員らと意見を交わし、覚悟を決めた。
 須田は翌日、コンサルタントらを呼び出して告げた。「一つだけ変えたい所がある。山を切ってほしい」
 11年6月から町の復興事業に携わってきた中央復建コンサルタンツの末(すえ)祐介(43)らは驚いた。「本当にやるんですか、10年がかりの仕事になりますよ」
 しかし、須田の決意は揺らがなかった。末らは約1週間で図面を引き直した。
 地形を一変させる決断の後も町は計画を度々変更した。公共施設を集約したシビックコア、住宅地、商業施設などのにぎわい拠点をつなぐ「生活軸」を背骨に据え、コンパクトな町づくりに行き着いた。
 末は「都市計画の大きな変更の連続は、技術者にとってクーデターのような衝撃。他の自治体でこんなに柔軟かつ大胆に変える例は聞いたことがない」と振り返る。
 民間事業者による町復興連絡協議会(FRK)などが早い段階から議論を重ねていたことが、女川町の「目指す町の姿」を明確にした。50年、100年先の町民に引き渡せる町づくりに町は知恵を絞った。

 ともすれば、自治体は国の制度やコンサルタントが敷いたレールにそのまま乗りがちだ。しかし、女川町は戦略的に制度を選んだ。時には「規格外」の手法も繰り出した。
 町中心部のほぼ全域を対象とした土地区画整理事業もその一つ。国の担当者はあまりにも広範囲だとして、事業適用には懸念を示した。広いほど住民合意のハードルが高くなり、事業が困難になる恐れがあるからだ。
 それでも女川町は事業適用を訴えた。事業の対象範囲にある土地は、その範囲内で同等価値の土地と換地できる。範囲が狭ければ、地区をまたいで複数の土地を持つ地権者は、それぞれの範囲内の土地としか換地できない。
 町は、住民がばらばらに所有する複数の土地の集約を可能にしたかった。そのためには、事業の適用範囲が広い方がいい。「土地利用の効率が上がり、事業者の意欲も引き出せる」と須田は狙いを語る。
 換地により商店街周辺の土地利用を促し、町は体系的ににぎわい拠点の表情を作り上げていく。(敬称略)


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2017年08月12日土曜日


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