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<終戦記念日>帰還しない仲間 病に倒れた友 戦争体験元兵士に聞く

豊田力男さん
佐藤政敏さん

 8月15日は終戦記念日。玉音放送が太平洋戦争の終わりを告げて72年となる。満州事変から日中戦争、太平洋戦争と突き進み、泥沼化する戦況に人々はいや応なく巻き込まれた。元兵士で仙台市太白区の豊田力男さん(93)、宮城野区の佐藤政敏さん(91)に市内で戦争体験を聞いた。

◎海戦、自分の命は自分で守るしかなかった/無職 豊田力男さん(93)

 宮城県丸森町の出身で、16歳で志願して横須賀海兵団に入団。1941年8月に航空母艦「翔鶴」に整備兵として乗り組みました。見上げるほど大きな船で、この船に命を託すのかと思ったのを覚えています。
 九州沖で訓練をしていた時、急に金華山沖への参集が命じられました。「(米国ハワイの)真珠湾奇襲作戦に向かう。諸君の命は艦長が預かる」と艦長に言われ、びっくりしましたね。12月8日朝は暗い中、1次飛行隊が出撃。全て無傷で戻ってきました。でも2次隊は総攻撃を食らい、機体に穴が開いていました。
 国民は大戦果だと喜んだが、米国の被害は古い艦船ばかりで空母は無傷。海軍内には負け戦の始まりだとの声がありました。空母が打撃を受けていたら、戦況は変わっていたかもしれない。
 珊瑚海海戦や南太平洋海戦にも参戦しました。敵機が来ると甲板を逃げ回り、仲間は格納庫へ。焼夷(しょうい)弾が格納庫の鉄壁を貫き、みんな死んでしまった。誰も自分のことで精いっぱい。自分の命は自分で守るしかないとつくづく思いました。

◎ラバウルでマラリアに苦しむ/無職 佐藤政敏さん(91)

 東京出身です。志願しなくても引っ張られると分かっており、1942年に横須賀第2海兵団に志願。整備兵の訓練を受け、第501海軍航空隊でラバウル(パプアニューギニア)に行ったのが43年10月です。
 班で2機の整備を任されましたが、空襲でやられ、残り1機は出撃し帰らない。担当する飛行機がなくなり、本隊がトラック島に移った後は農耕作業と軍事訓練ばかりの毎日でした。
 空襲はひどかった。50〜60機が飛行場を狙いに来た。野積みの燃料入りドラム缶が爆発して、すっ飛ぶのを目の前で見ました。畑仕事、戦車壕(ごう)を掘っている時も来るので、防空壕に急いで入り込みました。
 陸戦隊に編成替えされてから銃と弾薬を渡されました。1人200発はなかったですね。こっちは三八式銃で、向こうは自動小銃や火炎放射器。今考えれば、太刀打ちできるわけがない。
 マラリアに8回かかりました。2〜3日休み、我慢して作業や訓練に戻りました。最初は予防薬もありましたが、最後の方はなかった。現地で偶然会った幼なじみもマラリアで亡くなったと聞きました。


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2017年08月15日火曜日


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