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<仙台いやすこ歩き>(64)源吾茶屋のラーメン/麺も自家製変わらぬ味

 「夏にラーメンもいいよね」。いやすこ画伯はいたって唐突…と思うそばから、うんうんとうなずいてしまう。遠い夏休みの記憶がよみがえったからだ。
 時は昭和40年代。仙台市青葉区の西公園のプールで思い切り遊んだ帰り、紫色の唇で食べたあのラーメン。おいしかったなぁ。と思ったらがぜん食べたくなるのが、いやすこのさがだ。早速やってきたのは仙台市民おなじみの西公園。セミしぐれに包まれた木々の向こうで源吾茶屋ののれんが呼んでいる。昔懐かしいたたずまいに「あ〜変わんないね〜」と顔を見合わせる。
 平日のお昼どき、お客さんが三々五々やってくる。中年のご夫婦、孫たちとおじいちゃんおばあちゃん、旅行者らしき若い女性、サラリーマンも次々に。そして聞こえてくる「ラーメンお願い」「みそラーメンね」の声の多いこと。今日の気温は30度。「うーん、やっぱりおいしいんだ」と、わくわくしながら「ラーメンお願いします!」
 順番を待ちながら、西公園のお餅屋さんの雰囲気を満喫、かつて公園にあったプールや天文台の思い出に浸る。そこに懐かしい香りを立ち上らせてラーメン登場。シンプルな美しさ、これぞラーメンという盛り付けにほっとする。一気に完食し、「あ〜、ごちそうさま〜」。充足感が体の隅々まで染みていく。
 「昔から変わらない味です」と話してくれたのは、4代目の多田浩佳(ひろよし)さん(42)。厨房(ちゅうぼう)が落ち着いたところでお話を伺った。スープは豚骨と鶏がら。「毎日作っています。このスープでカレーも作るんですよ」。
 麺も自家製。足りない時は追加で作ることもあるそう。厨房ではお父さんと浩佳さんと従業員の合わせて4人で、麺類の他にお餅、ご飯類、甘味を作っている。麺をゆでるのはお父さんで、盛り付けは浩佳さん。見た目も大事と日々努力している。それでも「うちは特別なラーメンじゃないので」と謙虚だ。
 昔から変わらない、の「昔」はいつ頃なのか、浩佳さんの隣でお母さんが話してくれる。「店のメニューにラーメンが登場したのは1947年頃だそうですよ」。仙台空襲で市街が焦土と化し、西公園にあった公会堂も焼失した中、源吾茶屋は焼け残ったのだ。お母さんはさらに代々伝える話を教えてくれる。
 江戸時代、伊達の殿様の行列が通る時、大橋へと下る急坂の手前で足軽さんたちは休憩した。「それならば」と、足軽頭がここに茶屋を開くことを思い付く。その足軽頭の名が源吾さん。創業明治元(1868)年というからもうすぐ150年。戦時中は川内にあった陸軍第二師団の兵隊さんたちの食堂代わり。「天文台があった時は、職員の方たちがよく来てくれましたね」と、優しい笑顔で懐かしそうに語る。
 ファン層は広く、海外の人も。「カタールの皇族の方も毎年、商談で来仙のたびに寄ってくれるんですよ」。そうかそうかとうなずきながら、やんごとない方もラーメンとごま餅を食べるのだろうか、と想像してしまう。あってうれしや、源吾茶屋。今日が夏の思い出の一ページになったいやすこである。

◎西公園 仙台の公園第1号

 西公園は、1875年、旧藩門閥の伊達安房、古内左近之助、大内縫殿の三つの屋敷跡約10.8ヘクタールを収容し、仙台市における公園の第1号として開園した。開園より前、荒巻にあった神明社をこの地に移し、桜岡大神宮と改めたところから、桜ケ岡公園の名が付けられた。一般的には、東の榴岡公園に対して西公園と呼ばれることが多い。
 明治時代、公園内には和洋料理店や芝居小屋が建てられ、茶店も何軒かあり、市民の憩いの場となっていった。1945年の仙台空襲で桜岡大神宮と源吾茶屋を残して焼失。戦後、市公会堂、市立天文台、市民図書館が建てられたが、市公会堂が市民会館に変わった他は、移転している。
 公園西側の低地には戦前、仙台中学校(現仙台高校)があったが空襲で焼失。ここに61年オープンした仙台市営プールは、2006年に廃止となった。
 15年の仙台市地下鉄東西線開業で公園の南西角に大町西公園駅ができ、新たなにぎわいが生まれている。
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 土地には、その土地ならではの食があります。自他共に認める「いやすこ(仙台弁で食いしん坊のこと)」コンビ、仙台市在住のコピーライター(愛称「みい」)とイラストレーター(愛称「画伯」)が、仙台の食を求めて東へ、西へ。歩いて出合ったおいしい話をお届けします。


2017年08月21日月曜日


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