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くりはら地形紀行(1)伊治城跡(築館丘陵)

栗原市による発掘調査が行われている伊治城政庁跡

 宮城県栗原市には約50万年前の造山運動でできた活火山の栗駒山(1626メートル)や、河川の堆積作用により形成された標高10メートル前後の平野部などさまざまな地形がある。人々は地形を活用したり、土木工事で難点を克服するなどして暮らしてきた。市全域がジオパーク(地形や地質を生かした自然公園)に認定されている栗原市で、地形に根差した人々の営みを取材した。(若柳支局・横山寛)

◎絶好の立地 栗原の原点

 栗駒山麓の裾野に広がる築館丘陵は標高70〜300メートルの丘が連なる中山間地域で、畜産や畑作が盛んに行われている。その東部の築館城生野地区に位置する伊治(いじ)城跡は、迫川と二迫川に挟まれた、微高地を含む舌状の丘にある。
 標高は約25メートルで、水田が広がる周辺平野部との高低差は3〜5メートル。蝦夷(えみし)を配下に治めるため、奈良を都とする律令国家は767年、この丘に軍事拠点となる城柵を築き、栗原郡を置いた。
 東北学院大の松本秀明教授(63)=地形学=は「伊治城があった小高い丘は水害から免れることができるし、2本の川がすぐそばを流れるから舟運に優れる。絶好のロケーションと言っていい」と解説する。

<圧政に反旗翻す>
 この丘には「栗原」という地名の原点がある。
 東北学院大の熊谷公男名誉教授(67)=日本古代史=によると、かねて専門家の間では蝦夷の栗原地方の呼称である「これはる」または「これはり」を和語に置き換えたのが「くりはら」だといわれてきた。
 裏付けられたのは1973年、多賀城跡で「此治城」と記された漆紙文書が見つかったことだった。「此」「伊」はいずれも「これ」、「治」は「はる」「はり」と訓読みする。続日本紀などにある「伊治城」は「いじ」ではなく、「これはり」「これはる」と読むとの見方が有力になった。
 伊治城を拠点とする栗原郡長官に就いたのは、この地を治めていた蝦夷族長の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)。律令国家から高い位を与えられ服属したが、北関東からの移民政策など蝦夷に対する圧政に反旗を翻した。
 780年、伊治城を訪れた律令国家の高官ら2人を殺害。数日後、軍を率いて国府である多賀城に攻め入り、焼失させた。「呰麻呂の乱」として歴史に名を刻む一太刀だった。
 熊谷名誉教授は「国府の焼き打ちは律令国家にとって前代未聞の出来事。大きなショックでメンツも丸つぶれだった」と解説する。
 力を武器にする覇権主義への抵抗は、蝦夷のアイデンティティーを取り戻す戦いだったのだろう。

<市民らが創作劇>
 呰麻呂を主人公に2000年と08年、栗原市内で住民参加の創作劇が上演された。企画した市民グループ代表で、演出を務めた熊田乙彦さん(69)は「権力にひれ伏さない呰麻呂の姿に、心を突き動かされた」と上演の動機を語る。
 伊治城跡の南隣接地では古墳時代前期(4世紀)のヤマト政権に連なる大規模集落跡「入の沢遺跡」が見つかっている。権威の象徴である副葬品が大量に出土し、竪穴住居5棟が突然の火事で焼失したことが発掘調査で分かった。「蝦夷など反政権側が急襲し、集落を滅ぼした」との見方もある。
 北と南の文化と思惑が交わる丘には、権力に抗した人々の歴史が刻まれている。

<伊治城跡>外郭は東西700メートル、南北900メートル。東西185メートル、南北245メートルの内郭の中に政庁があった。2003年、国の史跡になった。


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2017年08月20日日曜日


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