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くりはら地形紀行(3)伊豆沼・内沼(せき止め湖)

伊豆沼・内沼では1941年から大規模干拓が行われ、周囲に水田が広がった。落ち穂はマガンの貴重な餌になる

 宮城県栗原市には約50万年前の造山運動でできた活火山の栗駒山(1626メートル)や、河川の堆積作用により形成された標高10メートル前後の平野部などさまざまな地形がある。人々は地形を活用したり、土木工事で難点を克服するなどして暮らしてきた。市全域がジオパーク(地形や地質を生かした自然公園)に認定されている栗原市で、地形に根差した人々の営みを取材した。(若柳支局・横山寛)

◎人と農あっての渡り鳥

 渡り鳥の国内有数飛来地として知られる伊豆沼・内沼は、栗原市と登米市にまたがって位置する。迫川に合流していた幾つかの小さな河川が、迫川の度重なる氾濫による堆積作用でかさ上げされた地盤にせき止められ、排水不良となってできた「せき止め湖」だ。
 東北学院大の松本秀明教授(63)=地形学=によると、海が陸地側に最も入り込んでいた7500年前は、石巻湾から北上川に沿って登米市石越辺りまでが大きな入り江になっていた。
 その後、北上川や迫川などが大量の土砂を運んだことで入り江は埋め立てられ、現在の平野が形成された。伊豆沼・内沼は入り江近くに位置する谷底(こくてい)平野(丘陵地にはさまれた平地)だったとみられる。

<魚介減り農地へ>
 今は内陸部に位置する平均水深が80センチの浅い沼は、周囲の人々の暮らしに欠かせない存在だ。岸辺に生えるヨシはかやぶき屋根の材料に、生息するコイやウナギなどの魚介類は貴重なタンパク源になった。
 県伊豆沼・内沼環境保全財団の藤本泰文研究員(42)=水産学=は「かつては『伊豆沼銀行』と呼ばれるほど水産物に恵まれていた。しかし水質の富栄養化やブラックバスの急増で魚介類が減ってしまった」と教えてくれた。
 沼は魚介類の代わりにコメの供給基地になった。1941年に伊豆沼と周辺で大規模干拓がスタート。64年までに約280ヘクタールが農地へと姿を変えた。大正時代は682ヘクタールだった伊豆沼・内沼の面積は387ヘクタールへと約6割に縮小した。
 「周囲に豊かな水田が広がったことで、伊豆沼・内沼はマガンなど渡り鳥の国内有数飛来地になった」と同財団の嶋田哲郎総括研究員(48)=鳥類学=は解説する。

<絶好の食環境に>
 マガンは水田の落ち穂を食べる。嶋田さんによると、バインダーで稲刈りしていた頃は1ヘクタール当たり10キロのコメが落ちたが、近年主力になったコンバインでは同65キロ。マガンにとってうれしい食環境になった。
 さらに転作で90年代から大豆の栽培面積が急増したことは、マガンにとって吉報だった。大豆は収穫時、1ヘクタールに355キロも残る。しかも水田の落ち穂を食べ尽くした11月ごろ大豆の収穫が始まるのも好都合だ。
 「マガンは農業という人々の営みを利用して越冬する。ねぐらとなる沼だけあっても飛来しない」と嶋田さんは解説する。
 稲をバインダーで刈り取るのが一般的だった時代、天日干ししているコメを食べるマガンは害鳥だった。マガンが71年に保護鳥になったことを快く思わない人もいた。80年代には伊豆沼・内沼のラムサール条約登録を巡り、自然保護団体と地元農家が対立したこともあった。
 70年に約2300羽だった県内のガン類飛来数は飛躍的に伸び、18万羽に増えた。半分以上は伊豆沼・内沼をねぐらにしているという。


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2017年08月23日水曜日


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