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くりはら地形紀行(4)伊豆野原(自然堤防)

迫川の取水地に設置された伊豆野堰頭首工。周辺は「せせらぎ公園」として整備されている

 宮城県栗原市には約50万年前の造山運動でできた活火山の栗駒山(1626メートル)や、河川の堆積作用により形成された標高10メートル前後の平野部などさまざまな地形がある。人々は地形を活用したり、土木工事で難点を克服するなどして暮らしてきた。市全域がジオパーク(地形や地質を生かした自然公園)に認定されている栗原市で、地形に根差した人々の営みを取材した。(若柳支局・横山寛)

◎藩制時代の堰 水田潤す

 迫川水系に広がる栗原市の水田地帯は、藩制時代から「金成耕土」と呼ばれていた。米どころの大崎、名取と並ぶ県内の三大耕土だ。寒暖差が大きい県北で育つコメはとりわけ味がいいとされる。
 肥沃(ひよく)な農地は先人の労のたまものだ。
 金成耕土の中核である志波姫地区は、かつて伊豆野原と呼ばれた迫川の自然堤防地形。伊豆野原は迫川より8メートルほど高く、水を引いて耕作地にすることは困難だった。人はほとんど住んでおらず、一面に野原が広がっていた。

<忠宗が開墾命ず>
 そんな原野をタカ狩りのため訪れた2代仙台藩主伊達忠宗は1641年、家臣に開墾を命じた。
 「ポンプで揚水できるようになったのは明治後半。藩制時代、伊豆野原の開墾はかなり難しい事業だった」。土地改良の歴史に詳しい宮城大名誉教授の加藤徹さん(69)=農業水利学=はこう説明する。
 開削が始まったのは44年。取水地は伊豆野原を15キロほどさかのぼった一迫地区の迫川右岸に定めた。伊豆野原との高低差は13メートルほど。平均すれば1キロ進んでも1メートル程度しか落差はない。
 加藤さんは「昔の人は水の流れをしっかり観察していた。どうやって取水地を決めたのかははっきり分からないが、どこで取水すれば、どのように水が流れるかを知っていたのだろう」と分析する。
 一度は通水失敗で責任者が投獄されたこともあったが、さまざまな技術を駆使し、水路延長約21キロの農業用水路は着工から2年後に完成。原野に水が行き渡るようになり、耕作が可能になった。用水路名は伊豆野堰(ぜき)。県北や岩手県南では取水口と水路を合わせて「堰」と呼ぶという。

<藩財政を支える>
 藩制時代初期、仙台藩の石高は62万で、うち栗原は8万1300(1石は150キロ)。伊豆野堰などによる新田開発で1684年には12万4000石へと急増し、藩財政を支えた。
 伊豆野堰は水害や地震で被害を受けたこともあったが、修復を繰り返して栗原の水田を潤し続ける。迫川上流土地改良区によると、同堰による受益面積は約2600ヘクタール。改良区の担当者は「栗原の農業にとって伊豆野堰は必要不可欠」と言い切る。
 東北農政局が4月に公表した市町村別農業産出額(2015年)によると、栗原市のコメは93億円で登米市(105億円)、大崎市(98億円)に次いで県内3位、全国でも11位だった。
 先人が地形と向き合って400年近く前に完成させた農業用水路が、現代の米作りを支えている。


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2017年08月24日木曜日


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