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<お天王さん再び>離れた住民つなぐ場

夜店でにぎわう八重垣神社の境内。かつての住民が笑顔で再会する姿が見られた=2017年7月29日、宮城県山元町笠野地区

 東日本大震災の大津波で流失した宮城県山元町笠野地区の八重垣神社社殿が今夏、よみがえった。神社周辺は災害危険区域に指定され、住居建築が制限されている。昔から「お天王さん」と呼ばれ親しまれてきた地域のシンボルの再建は、かつての住民らに希望をもたらしている。(亘理支局・安達孝太郎)

◎みやぎ路/山元・笠野 八重垣神社(下)夏祭り 

 「さあさ歌えよ笠浜甚句 ハットセ いつも大漁のコリャ続くよに ハットセ ハットセ」
 7月29日、新社殿の完成を祝う八重垣神社例祭の宵祭り。古くから宴席で歌われてきた地元の民謡「笠浜甚句」に合わせて、懐かしい踊りが披露された。かつての住民ら女性10人が踊り終えると、観客から大きな拍手が湧いた。
 甚句には昔行われていた漁の様子が歌われ、牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と呼ばれていた八重垣神社も「天王さま」として登場する。踊りには網を沈めるために石の重りを投げる動作などもある。
 宵祭りでの披露は東日本大震災後初めて。「みんなばらばらになったけど踊りのために集まることができた」。神社そばにあった家を津波に流され、町の内陸部に移った岩佐富士子さん(61)が声を弾ませた。
 震災前、踊りは農家の女性が中心になって引き継いできた。渡辺貞子さん(61)もその一人。「敬老会、町の文化祭、そして宵祭り。20年以上も踊ってきたから体に染みついている」
 祭りは江戸期以前からあった。神社の信仰者の集まり「講中」が各地にあり、相馬藩から徒歩で訪れる者もいたという。
 にぎわいは戦後も続く。「子どもの頃、鳥居の外まで夜店があふれていた」。総代長の岩佐吉郎さん(76)が回想する。「娯楽の少ない時代。みんな何日も前から祭りを待っていた」
 祭りの思い出は若い世代にもある。宮司の長女で、今春禰宜(ねぎ)となった藤波梓(あずさ)さん(22)は「子どもの頃、店じまいまで夜店をのぞいて回った」と言う。
 「神職はあくまで選択肢の一つだった」という梓さんが母を継ぐ決意をしたのは震災から1年を過ぎた高校3年の夏。再び始まった宵祭りを目の当たりにした時だった。
 震災のあった2011年の例祭は神事のみ。夜店が並ぶ宵祭りが復活した12年7月は、仮のお宮とプレハブの事務所があるだけだった。それなのに、境内は人で埋め尽くされた。
 夜空に打ち上がる花火を、大人も子ども無心に見上げていた。「震災後に初めて顔を合わせた人もいた。神社は人をつなぐことができると感じた」
 ただ、神社の維持には困難も予想される。震災前、笠野地区と南隣の新浜地区に氏子は約320戸あったが、今は笠野地区で家を修理して残る住民を中心に30戸ほど。それでも梓さんは「震災後も続いた氏子さんのつながりを無くしてはいけないと思った」と語る。
 今年の宵祭り翌日、恒例のみこし渡御があり、30人の担ぎ手が集った。「震災前から担いでいるから」。嶋田栄一さん(42)は集団移転先の新市街地「つばめの杜」から「お天王さん」のもとへ駆け付けた。
 総代長の岩佐さんが言う。「祭りに来てくれる人は、故郷や一緒に生きてきた人と結び付いていたいと願っている。そんな思いを大切にしていくことが、次の世代に神社を残す道につながる」

<八重垣神社>藤波宮司の21代前の先祖藤波尭雄が牛頭天王をまつり、江戸時代まで牛頭天王社と呼ばれた。牛頭天王は仏教の信仰対象となる一方、日本神話に登場する素戔嗚尊(すさのおのみこと)の化身とも言われる。明治初頭、神仏分離を進めた国の方針により名称が八重垣神社となる。社殿など神社再建費用は総額2億円余りで、全国からの支援金や氏子の浄財で賄われた。


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2017年08月28日月曜日


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