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<独眼竜挑んだ道 生誕450年>プロローグ 仙台城に見える伝統と革新

築城当初の石垣が一部に残る酉門跡。敵を全滅させるため、万全の備えをしていた=仙台市青葉区川内
仙台城を描いた中で最古の奥州仙台城絵図。本丸の西に酉門が描かれている(部分 1645年 仙台市博物館蔵)

 軍事拠点から政治機能や儀式を優先させる路線へ。伊達政宗が仙台城を築いた軌跡をたどると、時代の変化に合わせて城を活用した意図や独自性が見えてくる。

◎築城当初は軍事優先

 観光客でにぎわう仙台城本丸跡の西側。市道仙台城跡線沿いにあるが入り口に鍵が掛けられ、静まりかえっている。酉門(とりのもん)跡と呼ばれ、裏門に当たる。土地を所有する仙台市に鍵を開けてもらい中に入った。
 狭い道の両側に4〜7メートルの石垣が立ち、威圧感がある。正面は石垣で遮られ、左折した場所にかつて2階建ての門があった。門前まで侵入した敵に十字砲火を浴びせる構造だ。
 入間田宣夫東北大名誉教授(75)=日本中世史=は「政宗が築城当初、西側の山続きの方向に強い防御ラインを敷こうとした表れだ」と強調する。
 市道の向こう側は御裏(おうら)林(ばやし)(現東北大植物園)と呼ばれ、江戸期は立ち入りを禁止していた。植物園の散策路を歩くと防御用の古い空堀を見られる。市道の一部も空堀だったとされる。
 酉門跡はもともと民有地だったため立ち入ることができなかった。2011年、東日本大震災によって石垣の崩壊が進み、修復に先立って市が初調査。石積みの一部は築城当時の面影を残すと分かった。12年、国史跡に追加指定された。
 なぜ、合戦を意識した山城を築いたのか。時代背景を考えれば見えてくる。
 仙台城の着工は旧暦の1601年1月。関ケ原の合戦(前年9月)は終結したものの、政宗は会津の上杉景勝と「第2の関ケ原」と称される激戦を繰り広げていた。
 「戦が終わらない中、なかなか普請が進まない」
 02年4月、政宗がしたためた書状からは、緊張感が漂ってくる。
 書状を書いた3カ月後、戦闘は終わったものの仙台城の軍事拠点化は続いた。政宗が天下取りに執念を燃やし、家康との戦いを想定したからという説がある。
 本丸跡の標高は115メートル。東は広瀬川、南は竜ノ口渓谷に面した断崖で、北には巨大な石垣を築いた。軍事優先の思想は、当初の登城路とされる巽門(たつみもん)跡から清水門跡を通って本丸に登っても実感できる。

◎大広間と懸造 力注ぐ

 伊達政宗の死から9年後の1645年に作られた奥州仙台城絵図によると、本丸の大きさは東西135間(約266メートル)、南北147間(約290メートル)。江戸時代初期の山城としては全国最大級の規模だ。
 そんな大きな城なのだが、天守閣は全く造られなかった。
 仙台市博物館の菅野正道学芸普及室長(52)によると、天守造りに熱心だったのは豊臣秀吉や徳川家康といった天下人、そして成り上がりの大名だった。「伊達家は鎌倉時代から奥州に勢力を持つ名家であり、わざわざ天守を造って権威を見せつける必要はなかった」と笑う。
 政宗が最も力を注いだのが大広間だ。15年、大坂夏の陣で徳川家康が豊臣家を滅ぼし、幕藩体制が確立すると、仙台城の軍事的な側面は薄れる。政宗や、後に2代藩主となる忠宗は大広間で儀式をしたり来客と接見したりする場として使った。
 本丸北の詰門(つめのもん)をくぐってから左側にあり、正面の右手に玄関があった。中は畳敷きの部分だけで約260畳あり、14の部屋に仕切られていた。建物の様式は桃山時代より古い様式で造られたのに対し、各部屋に金箔を用い、豪華な鳳凰や鶴のふすま絵で飾り立てた。
 菅野さんは「伝統様式の建築と、当時流行した装飾を組み合わせ、どちらも造れることを示したかった」と理由を語る。
 もう一つ、伊達家にとって重要な建物がある。大広間の東南側にあった眺望用の懸造(かけづくり)だ。崖に張り出すように建て、長い柱で床を支えた。
 伊達家の城郭に詳しい鹿児島国際大の太田秀春教授(44)によると、政宗が城を構えた米沢や岩出山にも懸造があった。
 「幕末まで懸造を改修したことから、仙台城にとって欠かせない建物だったと分かる」と太田さん。
 大広間と懸造。二つの遺構からは、伝統を受け継ぎながら独自性を打ち出した政宗の精神を読み取れる。(生活文化部 喜田浩一/写真部 岩野一英)

◎史跡整備震災で見直し

 仙台市は仙台城跡に関する整備基本計画に基づき、発掘や史跡の整備を続けてきた。東日本大震災の発生によって状況が変わり、計画全体を見直す。
 基本計画は2005年に策定。本丸跡にガイダンス施設・仙台城見聞館を設置し、大広間跡には礎石を置いて建物の規模や使われ方を表示した。政宗の屋敷や庭園があったとされる三の丸跡では巽門跡などに表示板を掲げた。
 大震災の発生によって本丸北西石垣などが崩れたため修復を優先した。
 基本計画では大手門と巽門の復元をそれぞれ中、長期目標と定めたが、計画通りに進んでいない。
 史跡整備に先立つ発掘調査は16年度に再開。本年度は、三の丸跡で伊達家のために酒を造った屋敷跡や江戸時代に築かれたとされる土塁跡を調べる。
 また、市は青葉山と広瀬川に囲まれた地域で青葉山公園(仮称)を整備する。追廻地区では仙台の歴史と文化を発信する公園センターの基本設計を始め、20年度の完成を目指す。


関連ページ: 宮城 文化・暮らし

2017年08月29日火曜日


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