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<独眼竜挑んだ道 生誕450年>(1)まちづくり/杜の都繁栄の礎築く

二つの城下町が合体したことを示すY字路。正面の東二番丁通は仙台城下、斜め右に向かう愛宕上杉通は若林城下の町割りに基づく=仙台市青葉区五橋付近

 「挑戦」をキーワードとし、伊達政宗(1567〜1636年)の事跡に迫る連載「独眼竜 挑んだ道」。第1部は仙台のまちを潤した用水や国宝瑞巌寺などの遺産を取り上げる。

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 政宗は旧暦の1601年1月、仙台城の着工と同時に町割りを決めた。白地図に線を引くように計画を練ったはずだ。当時、周辺地域は人家の少ない荒野だった。
 城は青葉山の上に造り、広瀬川を挟んで対岸に城下町を配置した。「町の中心に平城を置く米沢や会津若松と異なり、仙台は堅固な城と経済発展を目指す町をはっきり区別した」と仙台市博物館の菅野正道学芸普及室長(52)は特徴を説明する。
 経済発展に向けて重要だったのは道だ。城から東に向かって広瀬川を渡った方向に道を伸ばした。現在の大町通と中央通に当たる。南北に走る奥州街道を城寄りに移し、十字に交差する地点「芭蕉(ばしょう)の辻(つじ)」をまちづくりの基点にした。
 大町通と奥州街道沿いには町人町を置き、古着や木綿、油などの専売権を与えてにぎわいをつくり出した。
 一方、城下町全体に占める町人町の比率は小さく、武士の居住地が広かった。商工業が盛んになった江戸中期でも、武家屋敷の面積は町人町の4、5倍あったという。
 菅野さんは「政宗が領地を拡大した時期に滅ぼした武将の家臣や、城の工事など技術力を持つ武士を多数召し抱えたため」と話す。
 城の近くは重臣の屋敷で固め、町人町を取り囲むように中下級武士を住まわせた。武士の屋敷は身分が高いほど広かった。住宅以外の空き地には建材として役立つ杉や、実がなる木を植えさせた。
 仙台城本丸から城下町を眺めると、武家屋敷や寺社に木々が生い茂っていたことが記録に残されている。「杜の都仙台」は政宗が源だったのだ。
 都市プランは晩年まで続く。数えで61歳になる27年、城下町の東部に若林城(現宮城刑務所)を造った。敷地は東西400メートル、南北350メートルと広大で、周囲に重臣の屋敷や町人町を設けた。
 なぜ、仙台城以外に城を造ったのだろう。
 「理由の一つは副都心構想」。仙台市内でまち歩きの講師として活躍する元市職員の木村浩二さん(65)はこう表現する。
 町の拡大を実感できる地点がある。青葉区五橋2丁目の市福祉プラザ前。斜め左から国道4号、斜め右から愛宕上杉通が約30度の不思議な角度で交差する。
 4号と愛宕上杉通はそれぞれ、仙台城と若林城を造った時に定めた町割りに基づいている。若林城は政宗の死後、廃止されたものの、周辺の町割りは温存され、108万人の人口を抱える現代に結び付いた。
 木村さんは「拡大を意識して二つの町をつないだ例は全国的に見て珍しい。広瀬川の河岸段丘を生かしたまちづくりを含め、誰にもまねのできない一流の都市計画だ」と太鼓判を押す。
 明治期以降、武士や商家の建物は次々に失われた。だが、政宗の都市プランは縦横に走る道として鮮明に残っている。
(生活文化部・喜田浩一、写真部・岩野一英)

[メモ]政宗は米沢を居城としていたが、豊臣秀吉の命令で岩出山城(大崎市)に移った。秀吉の死後、政宗は徳川家康と同盟を結び、上杉領となっていた元の領地を回復しようとした。実現した場合、岩出山は領地全体の北に寄り過ぎているため仙台を選んだ。


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2017年09月05日火曜日


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