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<独眼竜挑んだ道 生誕450年>(3)四ツ谷用水/高度な施工藩民潤す

城下のにぎわいをもたらした四ツ谷用水。現在は本流だけが残り、暗渠(あんきょ)化されていない上流の一部で水の流れを見ることができる=仙台市青葉区郷六

 水は高い所から低い所へ流れる。自明の理ながら、自然流下の重力エネルギーだけで末端まで水を通すには、高度な土木技術と巧みな地形の読みが要る。
 仙台城下を網の目のように流れた四ツ谷用水。総延長は44キロに及んだ。本流は仙台市青葉区郷六に設けた広瀬川の取水堰(ぜき)から東西に横切り、梅田川に注ぐ。本流から分水した支流が3本、さらに細く分かれた枝流が多数あった。
 藩民にいかに水を供給するか。新たなまちを開く伊達政宗にとって重要課題だったに違いない。仙台城下は広瀬川の河岸段丘に位置する。川面と城下の地盤は約20メートルの高低差があり、直接取水するのは困難。湧き水も豊富だったが、水需要の増加に耐えるものではなく、逆に排水も必要だった。
 政宗の命を受け、名土木家の家臣川村孫兵衛が難題に向き合い、普請奉行を宇津志(うつし)惣兵衛が務めたとされる。1620年代に着工し、4代藩主綱村が治めた元禄時代(1688〜1704年)になってようやく全体が完成したらしい。
 取水堰から梅田川の合流地点までの距離は7.2キロ、標高差は25メートル。平均勾配0.35%の傾斜を利用することで理想的な流速を保った。郷六から八幡を抜ける一帯は山谷が横たわる難所で、隧道(ずいどう)や木製の水道橋「掛樋(かけひ)」を造って水を通した。
 「隧道内には今も無数のノミ跡が残っている。機械がない時代、数学、測量学、水利学を駆使した高度な施工技術は驚きに値する」。東北工業大非常勤講師(水環境工学)の後藤光亀さん(66)がうなる。
 整然とした水の流れはまちのにぎわいを生んだ。炊事・洗濯などの生活用水となり、防火用水となった。酒造りや染め物などの産業をおこし、下流では田畑を潤した。さらに、土中に浸透した地下水は木々を育て、現在の「杜の都」の礎を築いた。
 政宗が利水に力を尽くしたのは仙台が初めてではない。1591年に豊臣秀吉の命で米沢から城を移した岩出山に先例がある。江合川から分水して開削した内川は岩出山城を防御する外堀であり、かんがい用水路。清流は今も、東北を代表するコメどころ大崎耕土を潤し続けている。
 「岩出山時代から政宗は周到に仙台の地形を調べていたのではないか」と仙台・水の文化史研究会の柴田尚会長(71)。「仙台に置いた重臣の屋代景頼を通じ、水資源が豊かで災害にも強い地盤だと見抜いたからこそ繁栄の青写真が描けた」とみる。
 四ツ谷用水の維持管理費は仙台藩と「水下十八町(みずしたじゅうはっちょう)」と呼ばれた町方、下流の農民が3分の1ずつ負担。重要インフラを官民協働で支える仕組みも実に合理的だった。
 明治期以降、四ツ谷用水は埋め立てが進み、現在は本流が工業用水として使われるだけになった。一方で、仙台市の郷土史家佐藤昭典さん(7月29日死去)がその偉業に光を当て、復活を願う市民運動が続いている。水との調和を図る思想は、都市化が進む現代ほど輝きを放つのかもしれない。(生活文化部・成田浩二、写真部・岩野一英)

<メモ>四ツ谷用水という名称は、広瀬川から取水後の難所を抜ける際、針金沢、聖(ひじり)沢、鶏(にわとり)沢、へくり沢が流れる「四つの谷」を越えたことに由来するといわれる。青葉区八幡5丁目から柏木2丁目付近に古い石積みが残るなど、往時の四ツ谷用水の姿を伝える痕跡をわずかに確認できる。

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 「挑戦」をキーワードとし、伊達政宗(1567〜1636年)の事跡に迫る連載「独眼竜 挑んだ道」。第1部は仙台のまちを潤した用水や国宝瑞巌寺などの遺産を取り上げる。


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2017年09月07日木曜日


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