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<独眼竜挑んだ道 生誕450年>(2)瑞巌寺/気概にじむ桃山美術

「文王の間」の奥に政宗が座った「上段の間」、左奥に天皇・将軍家用の「上々段の間」がある。鮮やかな金箔の障壁画は長谷川等胤の手になる=宮城県松島町の瑞巌寺本堂

 平安時代から松島(宮城県松島町)は歌枕の地であり、月の名所だった。浄土往生を祈念する霊場でもあったという。かぶとに弦月の前立てを掲げた伊達政宗の目にはことさら神聖に映ったかもしれない。
 政宗は1604年、この地で臨済宗の禅寺、瑞巌寺の造営を始めた。正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざんずいがんえんぷくぜんじ)」という。中秋の名月の旧暦8月15日を選び、自ら縄張りを行ったことに思いの強さがうかがえる。

 寺の歴史は古く、828年に慈覚大師円仁が創建した天台宗延福寺に始まり、鎌倉時代には臨済宗円福寺に変わって盛期を迎えた。しかし室町時代から戦国の世へと移る中で徐々に衰退し、政宗が仙台に入ったころにはすっかり荒れ果てていた。
 政宗は幼少期からの師である名僧虎哉宗乙(こさいそういつ)の献策で古刹(こさつ)の再興を決意。伊達家の菩提(ぼだい)寺としての格式を持たせた。「太平の願いを託すとともに、奥州王として、かつて藤原秀衡が平泉に築いた一大栄華を再現する気概を示そうとした」。瑞巌寺宝物館学芸顧問で葦航(いこう)寺(宮城県七ケ浜町)住職の堀野宗俊さん(67)は言う。
 造営に当たっては徹底したこだわりを見せた。京都、和歌山から130人もの名工を呼び寄せたほか、材料となったヒノキ、ケヤキなども和歌山の熊野山中から切り出して筏(いかだ)に載せて運び入れた。
 「棟や床に土足で上がってはならぬ」「釘(くぎ)や鎹(かすがい)といえども土に落ちたものを使わぬように」。聖なる建物を汚さないよう職人に細心の注意を求めたことが政宗の言行録「木村宇右衛門覚書」に記されている。
 丸4年の歳月を経て完成した大伽藍(がらん)には祈りの心が見事に体現された。本堂は幅38メートル、奥行き24.2メートルの堂々たる構えで、内部には豪華な桃山様式の美を施した。

 障壁画を手掛けたのは長谷川等伯の門弟長谷川等胤や狩野左京、欄間などの彫刻は伝説上の人物「左甚五郎」のモデルともいわれる刑部(おさかべ)左衛門国次ら。名工がそろって一つの空間を彩るのは珍しい。「上段の間」「上々段の間」がある間取りは、豊臣秀吉が京都に築いた聚楽第に範を取った仙台城本丸大広間と同じ様式を見せている。
 「彫刻と手工の最も精巧な労作。石造ではスペインのエスコリアル宮殿、木造では当寺をもって世界に並ぶものがない」。スペインの大使ビスカイノは宣教師ソテロと共に1611年に瑞巌寺を訪れ、「金銀島探検報告」にそう書き残した。
 宮城県慶長使節船ミュージアムの浜田直嗣館長(77)は「金箔(きんぱく)装飾の奥には一転して墨絵の間がある。政宗は桃山文化を取り込むだけでなく、伝統文化と融合させ、東北なりの桃山に仕立て直した」と指摘する。高い美意識は仙台の大崎八幡宮や陸奥国分寺薬師堂でも遺憾なく発揮された。
 瑞巌寺本堂には虎哉宗乙が揮毫(きごう)した扁額(へんがく)「松島方丈記」が掛けられている。「願わくは政宗公が日本六十州を掌中に収め、大椿(だいちん)八千歳の長寿を御身に保たれますように」。近世大名として新たな国づくりに挑む政宗への、何よりのことほぎだった。(生活文化部・成田浩二、写真部・岩野一英)

<メモ>本堂・御成玄関、庫裏・回廊が国宝、御成門・中門・太鼓塀と障壁画161面が国の重要文化財。2008年から「平成の大修理」と銘打って明治以来の大改修が行われた(一部継続中)。東日本大震災では津波が参道途中まで達し、根腐れした杉を伐採して再生工事を進めている。

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 「挑戦」をキーワードとし、伊達政宗(1567〜1636年)の事跡に迫る連載「独眼竜 挑んだ道」。第1部は仙台のまちを潤した用水や国宝瑞巌寺などの遺産を取り上げる。


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2017年09月06日水曜日


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