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<連載・談 かたる>稲垣潤一さん(2)帰郷後も夢捨てず 遅咲きデビュー実現

「ハコバン」時代の稲垣さん(左から2人目)=1979年、仙台市青葉区のスコッチバンク

 ――1972年の秋に上京したものの、仕事は思うようにはいかず、1年もたたないうちに帰郷する

<けがで出直し決意>
 東京での「ハコバン」生活は甘くなかったです。4畳半1間に仙台の友人と住みながら、在日米軍キャンプやナイトクラブなどで演奏しましたが、ギャラの未払いや米軍人による演奏中の乱闘騒動など、いろいろと問題がありました。
 音楽的にも思ったほど活躍できず、自分の力不足を感じ、心身ともに疲弊しました。経済的にも苦しかったです。食事は乾麺とご飯が常で、慢性的な体調不良になっていました。
 バンドの解散問題も起き、行き詰まっていたある日、ドラムを運んでいて階段の上から下まで転げ落ち、けがをしてしまったのです。その時「仙台に帰ろう。出直そう」と決めました。
 気落ちして仙台に戻ってからは、しばらく引きこもりの状態でした。そんな僕を動かしてくれたのが音楽でした。僕を気遣ってバンドに誘う友人の電話をきっかけに「やはり音楽しかない」と確信したのです。
 そこから仙台での「ハコバン」生活が再び始まりました。音楽家榊原光裕さん(仙台市)とその頃に出会い、バンドを組みました。当時から彼は素晴らしい音楽センスを持っていました。仙台では八木山合奏団やシンガー・ソングライターの岩渕まことさんらが活躍していた時代でした。
 70年代には仙台市内で生バンドを入れている店は40〜50軒はあったと思います。東北の腕利きのミュージシャンが仙台に集まっていた気がします。
 僕の身の回りでは、ストーカーの出現や仲間のドラッグ中毒など、さまざまなトラブルがありましたが、結果的には10年近くも夜の街で演奏し続けました。
 「ハコバンはもって半年、短くて10日間」とも言われる水商売でしたが、好きな音楽でなんとか食べていけたのは、幸せなことだったと思っています。中でも現在も仙台市青葉区にある「スコッチバンク」では、4年間という異例の長さのバンドマンを務めました。その間もメジャーデビューするという夢は捨てずに、音楽以外の道で生計を立てる考えはなかったです。

 ――80年。メジャーデビューの話が突然、舞い込む

<歌声の評判伝わる>
 僕の歌声の評判が人づてにフジテレビの女性プロデューサー秋山るり子さんに伝わり、実際に秋山さんが仙台に聴きに来たのです。その時にデモテープも手渡しました。秋山さんは「とてもスイートで特別な声!しかも、ドラムをたたきながら歌うなんて」と気に入ってくれ、僕のデビューを、上司に強く推薦してくれました。
 秋山さんの強い押しと周囲の評価もあって、28歳と遅咲きでしたが、メジャーデビューが一気に実現しました。デビュー曲は「雨のリグレット」です。作詞は湯川れい子さん、作曲はオフコース(後に解散)の松尾一彦さん(秋田県八峰町出身)です。それは洋楽的な上質のポップスを日本語の歌詞で歌うというジャンルへの挑戦でした。多くの人の協力でスマッシュヒットになりました。(聞き手は生活文化部・沼倉淳)

[いながき・じゅんいち]1953年仙台市生まれ。82年1月に「雨のリグレット」でメジャーデビュー。83、86年に日本レコード大賞ベストアルバム賞、93年に日本ゴールドディスク大賞、2009年に日本レコード大賞企画賞などを受賞。著書に「闇を叩く」(小学館)「かだっぱり」(同)。東京都在住。

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 「ドラマティック・レイン」や「クリスマスキャロルの頃には」を筆頭に、数々のヒット曲を持つ仙台市出身のミュージシャン稲垣潤一さん。ドラムをたたきながら歌うスタイルと独特の透明感があるハイトーンボイスで、多くのファンを獲得している。28歳でメジャーデビューし、35周年を迎えた今日まで第一線で歌い続けている。これまでの道のりを振り返るとともに展望も語ってもらった。


関連ページ: 宮城 文化・暮らし

2017年09月11日月曜日


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