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<私の復興>背中を押す 人との絆

食堂もある鮮魚店「幸邦丸」で魚を品定めする白井さん=宮城県亘理町荒浜

◎震災6年半〜宮城県亘理町荒浜 漁師・商店経営 白井邦夫さん

 純白の漁船が目を引く。小型底引き網漁船「JF幸邦(こうほう)丸」(9.7トン)。2012年7月、東日本大震災後、宮城県亘理町の荒浜漁港の新造船第1号だ。
 「人とのつながりが俺の背中を押し続けてくれた」
 同町荒浜の漁師白井邦夫さん(70)は弟(65)と長男(44)の3人で操業する。荒浜の小型底引き網漁船は、震災で15隻から5隻に減った。
 町には約2.5メートルの津波が押し寄せた。白井さんの船と自宅、妻とみえさん=当時(63)=をのみ込んだ。漁協の会議で仙台市にいた白井さんは難を逃れた。
 悲しみに沈む白井さんを励ましたのは、地元漁協の女性部長を務めて顔が広かったとみえさんの知人たちだった。県内はもちろん、関東からも激励の電話や支援物資がたくさん届いた。「まるで、とみえに背中を押されているようで」
 もう一度、海に出よう。県漁協が発注した「荒浜の一番船」を預かる決心をした。だが東京電力福島第1原発事故が、荒浜の漁師たちの前に立ちはだかる。12年4月、拡散した放射性物質の影響で町特産のヒラメやカレイなど5種が国の出荷制限に引っ掛かった。

 「海で生活するのは無理かも」と弱音を吐く仲間たち。白井さんは「どんな状況でも漁師は海がある限り網を揚げるものだ」と赤字覚悟で漁を続けた。
 出荷制限は1年後にようやく解かれた。以降、地元漁協は毎年、地道にヒラメの稚魚を放流し、資源の回復に努めた。おととし、昨年と豊漁が続く。
 「北上、阿武隈、名取の三つの川から流れ込むプランクトンで育った仙台湾の魚はどこにも負けない」
 船が港に並び、水産加工施設が復旧し、特産のヒラメが水揚げできても、戻らないものがある。
 網を揚げれば今でも震災当時のがれきがかかる。仙台湾には津波で流出したコンテナが多く沈む。海底の砂が沖に流された影響で小魚が消え、生態系が変わった。町を去る若者は後を絶たず、後継者難が続く。
 「目に見える復興と真の復興には、まだ差がある」。白井さんは唇をかむ。

 活路は自ら開こうと考えた。15年3月、漁港のそばに国の補助金や町の支援を受けて開設された「荒浜にぎわい回廊商店街」に、船と同じ名前の鮮魚店を開店。震災と原発事故で失った販路の回復につなげたい。地元の要望を受けて食堂も設けた。
 魚を捕って、さばいて、売る。店の壁に貼られた写真の中のとみえさんが駆け回る白井さんを見守る。「やれ! やれ! と言われているよう。疲れても、立ち止まることはできない」
 前を向く白井さんが唯一心に留め置くことがある。「とみえの最期がどんなだったのか、それを知る長男には今も聞かないでいる」
(報道部・菅谷仁)

●私の復興度・・・8割

 商店街や産直施設の整備、漁港はほぼ復旧した。何とかここまで来た。あとは荒浜の知名度を上げ、後継者となる若者を呼び込み、育てることに注力する。周辺は災害危険区域に設定され、人影もまばらになったが、今だけだ。今後は亘理名産の一つのコウナゴ漁をもう一度もり立て、浜のにぎわいを取り戻したい。頑張らないと、妻に申し訳ない。


2017年09月12日火曜日


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