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<独眼竜挑んだ道 生誕450年>(4)木曳堀/仙台城下へ木材供給

海岸線と並行して走る木曳堀。画面下から北上し、名取川河口を経由して仙台城下に通じていた

 貞山運河は宮城県の仙台湾沿いを走る運河の総称だ。江戸時代初期から明治時代にかけて五つの運河が整備され、全長は49キロと日本最長を誇る。このうち、阿武隈川と名取川の河口を結ぶ木曳堀(こびきぼり)が最も古く、伊達政宗の時代にさかのぼる。
 長さは15キロ。「木を曳く」という名の通り、当初は木材を運搬するのが目的だった。阿武隈川や白石川流域で伐採した木を仙台城下へ運んだ。
 「大量の木材を恒常的、かつ安定的に運ぶことを目的にこの水路は造られた」と仙台市博物館の菅野正道学芸普及室長(52)は説明する。
 名取川河口の閖上から川をさかのぼり、合流する広瀬川からさらに上流へ。現在の宮沢橋付近に船着き場があった。仙台市若林区舟丁の地名がその名残だ。
 動力を持つ船はなかったので、農民らが船や材木に縄をかけ、川岸から引っ張った。かなりの重労働だったことだろう。
 政宗の書状に木曳堀の記述は見つかっていないが物流拠点だった閖上が出てくる。
 1613年、政宗が農民ら100人を使って仙台城下に材木を運ぶよう命じた文書には、経路として「閖上 藤塚 舟町 城まで」と記す。
 木曳堀の文献が少ないため、造られた時代は「城の建設が始まる01年より前」「慶長の地震と津波があった11年以降」などとさまざまな説がある。
 菅野さんは01年以降の比較的早い時期と推定する。仙台城と城下町の建設ラッシュに伴い、大量の材木が必要だったからだ。
 「幕末の絵図を見ると木曳堀は現在より蛇行していた。自然の川や湿地をできる限り活用し、必要最小限の規模で造ったはず」と意図を推し量る。
 「戦国時代から江戸時代初期にかけて土木技術が飛躍的に発達した」。こう話すのは仙台城の発掘に長年携わった仙台市富沢遺跡保存館の金森安孝館長(64)だ。このため政宗は技術者の登用に力を入れた。
 金森さんは仙台城の築城に携わった金森内膳、川村孫兵衛らが木曳堀の工事にも関わったとみる。2人はそれぞれ、西日本などの戦国大名に仕えていたが、政宗からスカウトされた。
 城の石垣造りでは、裏込め石と呼ぶ小石を斜面に埋め込む作業が重要だ。金森さんは「裏込め石は負圧という原理を使って土中の水を抜くのに役立つ。木曳堀にも裏込め石を使ったはず」と推測する。
 政宗の時代より下って、塩釜湾と七北田川河口を結ぶ舟入堀(ふないりぼり)が造られた。木曳堀と併せ、仙台藩内で生産した米を江戸方面で販売するために活用された。
 明治期、名取川と七北田川を結ぶ新堀などが築かれ、木曳堀を含めた五つのルートが網羅された。政宗の法名である「貞山」を運河の総称として使うようになったのはこの頃だ。
 貞山運河は東日本大震災の津波で堤防やのり面が大きな打撃を受け、復旧作業や周辺の公園整備などが行われている。
 「政宗の運河」が着実に受け継がれている。(生活文化部・喜田浩一 写真部・岩野 一英)

<メモ>宮城県は2013年、東日本大震災で被災した貞山運河の再生・復興ビジョンを策定。木曳堀では堤防の復旧工事を行い、堤防沿いで桜を植樹している。研究者らで組織する貞山運河研究所(仙台市)は16年、昭和30年代まで使われた小型和船を再建し、各運河で体験乗船会などを開いている。
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 「挑戦」をキーワードとし、伊達政宗(1567〜1636年)の事跡に迫る連載「独眼竜 挑んだ道」。第1部は仙台のまちを潤した用水や国宝瑞巌寺などの遺産を取り上げる。


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2017年09月12日火曜日


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