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東北の八怪・帝大学者と知性(下)教養の先に/社会変える力生み出す

太田正雄筆「罌粟(けし)」。武内義雄賛「けむりをふくみあめをおびきょうたいをていす ふんをつけたいをこらしえんしょうをたくましゅうす」(仙台文学館所蔵)

<祖国への思い>
 第2次世界大戦下の1943(昭和18)年10月。東北帝大で初の学徒出陣が2カ月後に迫っていた。
 「芸術を解せざるやからを文盲と言う。諸君はこれから文盲の世界へ入る」
 美学概論の講義で、法文学部教授の阿部次郎(哲学)は徴兵を待つ学生らにこう切り出した。特高警察が目を光らせる中、当時の軍隊の在り方に異論を公言する阿部の姿は、聴講した学生らに「凜(りん)とした心」を感じさせた。
 東北帝大医学部教授から東京帝大に移っていた太田正雄(筆名・木下杢太郎、医学)は米軍の東京への空襲が激しさを増し、同時に死に至る病に自らがむしばまれていく中で、雑草の写生を毎日続け、1000枚近いスケッチを残した。
 「早く描いてしまわないと花の色があせてしまう」。大学から帰宅したある夕方、熱中のあまりに夕食を忘れ、そう言ったという。
 昭和初期の十数年間に東北帝大にそろった文人学者仲間で、後年「東北の八怪」とも呼ばれた阿部と太田は文芸の価値が軽んじられた戦時下でも、強烈なまでに文人の道を究め続けた。
 「われらは民族的理想が(普遍的な教養に基づく)『道』に協(かな)わぬものであるとき、この理想に抗争することによって初めて民族に対する奉仕を全くする」
 阿部が青年時代に出版した随筆集「三太郎の日記」のこの一節に、文芸に対する彼らの気概と信念の原点をたどることができる。
 根底には彼ら独特の「祖国への思い」もあった。東北帝大の文人たちはいずれも大正末期、西欧に長期留学して小さな祖国を海外から眺めた。
 阿部の三女の大平千枝子氏(故人)によると、「日本を世界に恥じない立派な国にするという共通の願い」が彼らの文芸活動を支えた。
 専門分野にとどまらず、文芸に深い意義を見いだして教養をひたすら追い求める阿部や太田の姿に、当時は多くの人々が憧れを抱いた。

<幅広い見識を>
 専門分化が進み、経済活動に直結する研究や教育を国が強く求める今日の大学で、そうした価値観をつくるのはそう簡単ではない。だが原発事故、生命工学、軍事研究といった課題に直面する現代の学者には、専門を超えた倫理観や幅広い見識が必要とされる。
 東北大高度教養教育・学生支援機構の野家啓一総長特命教授は「どう進むべきかという『方向感覚』と他者に共感する『平衡感覚』。両者でなす教養を科学研究が失ったから、原発事故が起きた」と指摘する。
 物理学から哲学に転じた経歴を持つ野家氏は「社会全体を変えるイノベーションは、科学技術と人文社会にまたがる教養の先にこそ生まれるのではないか」と問い掛け続ける。
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 昭和初期の東北帝大に「東北の八怪」と称された文人学者の一群がいた。専門分野にとらわれず、文芸の腕を磨く。そこには古今東西の知識への飽くなき探究心があった。大学人が担う知性の在り方を、東北帝大の先人の足跡をたどりながら再考する。(報道部・菊間深哉)

[主な参考文献]阿部次郎「合本三太郎の日記」 太田正雄「木下杢太郎日記 第2巻」 大平千枝子「父 阿部次郎」 勝本正晃「机辺散語」 篠田英雄訳「日本 タウトの日記 II」 原田夏子、原田隆吉「回想 東北帝国大学」 「近代作家追悼文集成 第30巻」 「『東北大学無名会懐古展』パンフレット」 「『近代の文人画』展図録」 「仙台市史 特別編3 美術工芸」


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2017年09月14日木曜日


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