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<独眼竜挑んだ道 生誕450年>第2部源流(1)幼少期/葛藤越え不屈の精神

館山城跡からは米沢の市街地が一望できる。中央に見える緑の茂みが米沢城跡。政宗はこの地に生まれ、右目を失う逆境を乗り越えてたくましく成長する

 仙台藩の国づくりは伊達政宗を語る一面にすぎない。群雄割拠の戦国時代には覇権を争う苛烈な日々を送った。第2部は生誕から近世大名に至る半生に焦点を当て、武将としての人間像と精神の源流を探る。

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 リンゴ畑が点在する米沢市西部の一角に、標高300メートル余りの丘陵がある。昨春、国史跡に指定された「舘山城跡」。伊達氏の米沢支配時代の拠点の一つだという。
 「立地や構造が仙台城とよく似ている。政宗はここで生まれた可能性がある」と市民団体「舘山城保存会」顧問の手塚孝さん(63)。米沢城を生誕地とする通説は現時点で動かないが、今後の調査・研究で新たな見解が加わるかもしれない。
 <故郷(ふるさと)は夢にだにさえ疎からず 現(うつつ)になどかめぐり来にけん>。仙台藩主となった後年、政宗は米沢をしのんでこう歌を詠んだ。近世の「上杉氏の城下町」の印象が強い土地だが、政宗にとっては誕生から青年期までを過ごした愛すべき故郷であったことは間違いない。
 政宗は1567年、伊達家16代の輝宗を父に、山形城主最上義守の娘で輝宗の正室、義姫を母に生を受けた。幼名「梵天丸(ぼんてんまる)」。源頼朝による奥州合戦で功を成した朝宗を始祖とする名族の長男だった。周囲の期待はいや応なしに大きかったが、皮肉にも、その境遇は暗い影をまとった。
 5歳のころだったという。梵天丸は天然痘にかかり、その毒で右目が腫れて失明した。自身の容貌に劣等感を覚え、人前に出るのを恥じるようになった。あろうことか、義姫がその器量を疎んじたとも伝わる。梵天丸は失望し、自分の運命を呪った。
 梵天丸がすがった「物語」がある。義姫が懐妊する際、幣束(梵天)を携えた老僧が夢に現れ「胎内に宿を借りたい」と告げた。この老僧こそ、かつて奥羽で「隻眼の聖人」と仰がれた満海上人。「梵天丸は満海上人の生まれ変わりです」。周囲の言葉がどれだけ心の支えになっただろうか。
 輝宗は梵天丸の非凡さを見抜いていた。師として名僧虎哉宗乙(こさいそういつ)を招請した。虎哉は美濃(岐阜県)の生まれで、快川(かいせん)和尚の弟子に当たる。快川は織田信長に寺を焼かれ、「心頭滅却すれば火もまた涼し」と唱えて火中に座したまま死んだ傑物。虎哉はその強烈な生きざまを人生訓としていた。
 虎哉は伊達家の帰依寺、資福寺(山形県高畠町)の住職となり、梵天丸に仏道や五山文学などを教えた。「悲しければ笑え、暑ければ寒いと言え」。そんな「へそ曲がりの術」も伝授。「一言一言が梵天丸の血肉となり、強靱(きょうじん)で明るい心を身に付けていった」。輝宗の死後、虎哉を住職に迎えて米沢で開山した覚範寺(現在は仙台市青葉区)の天野玄外住職(90)は言う。
 守り役片倉小十郎景綱に命じ、右目を小刀で切除させたという逸話はコンプレックスの克服とも読み取れる。数え11歳で元服し、授けられた名は「藤次郎政宗」。伊達家中興の祖、9代政宗の名を受け継ぎ、名族を背負う覚悟を一層固くする。
 戦国武将としては生まれるのが遅かった。豊臣秀吉と30歳、徳川家康と24歳の差。奥羽を拠点とする地理的ハンディもあった。葛藤を乗り越えた少年期の記憶が、臆せず乱世に挑む不屈の精神を支えていく。

生活文化部 成田 浩二
写 真 部 岩野 一英

[メモ]伊達氏は8代宗遠の1380年から212年間置賜地方を支配。15代晴宗から17代政宗までの1548〜91年に米沢城を本拠としたとされる。舘山城はもともと16代輝宗の家臣新田四郎義直の居城で、84年に輝宗が隠居所を普請、87年に政宗が地割・普請したとの記録が残るが、詳細は分かっていない。


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2017年09月26日火曜日


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