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<独眼竜挑んだ道 生誕450年>第2部源流(2)家督相続/若き当主合戦に疾駆

横死した父の弔い合戦で政宗が死闘を繰り広げた人取橋古戦場。のどかな田園に犠牲者を弔う碑が立つ=本宮市

 仙台藩の国づくりは伊達政宗を語る一面にすぎない。群雄割拠の戦国時代には覇権を争う苛烈な日々を送った。第2部は生誕から近世大名に至る半生に焦点を当て、武将としての人間像と精神の源流を探る。

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 1581年、米沢で14歳に成長した伊達政宗は、父輝宗に伴い宮城県伊具郡で初陣に立つ。旧領に侵攻する小高(福島県南相馬市)城主相馬氏が相手だった。戦国の英傑織田信長が本能寺に倒れる前年のこと。武家社会がざわめく中、政宗の青春は宮城と福島を縦横に疾駆する合戦で明け暮れる。
 18歳、家督相続。当主としてのデビュー戦は、小浜(おばま)(二本松市)城主である大内定綱の支城、小手森(おでもり)城攻め。新進気鋭を大名諸家にアピールするのに十分過ぎる殺りく戦となった。「女、子ども、犬に至るまで一千百余人をなで斬り(皆殺し)にした」。伯父だがライバルの山形城主最上義光(よしあき)に宛てた手紙には、自分の重臣に伝えた数よりも相当上乗せした戦果を誇る。
 さらに初戦を勝利で飾った高揚感が覚めやらぬのか、後世に語り継がれる天下取りの野望までぶち上げた。「この上は須賀川まで打って出て、関東を手に入れることもたやすい」
 当時の南奥羽には有力大名がひしめいていた。居城である米沢の北方、山形に最上氏、宮城県北部には葛西氏と大崎氏。福島県浜通りに相馬氏、岩城氏、会津に芦名氏。伊達氏同様、中世以来の由緒を持つ群雄が割拠する。北関東の常陸(茨城県)から佐竹氏も北進をうかがっていた。
 父の後ろ盾で地歩を固める政宗。だが、別れは思いも寄らない形で訪れる。85年、大内を支援し投降を装った二本松城主畠山義継に輝宗が拉致される。「構うな。自分もろとも義継を撃て」。手出しできず見守る伊達勢に対し、輝宗はこう命じたと伝わる。享年42歳、壮絶な最期だった。
 家督相続直後と思われる時期、輝宗が政宗に与えた自筆の手紙がある。意訳すると「若い時は戦略を誤り、暴言も吐く。しかし世間の評価や家臣のうわさを気にする必要はない。命をかけてそなたを支えるから、自分の信ずるところを突き進め」。乱世を生き抜くよすがにしたのだろう。焼却を指示する文言がつづられているが、政宗は生涯大切な形見とした。
 仙台市博物館の佐藤憲一元館長(68)は輝宗の功労を「父祖の稼いだ土地を手堅く守って引き継ぎ、織田信長、北条氏政、徳川家康らとの関係づくりにも努めた。政宗登場の舞台づくりに生涯をささげた」と表現する。父の遺志に背中を押されるように、政宗は再び戦場へと駆けだす。
 初七日を済ませ、弔い合戦となる二本松城攻略へ。畠山に加勢する芦名、佐竹ら連合軍約3万に対し、手勢は約7000。歴然とした兵力差で敗色濃厚だったが、勇将伊達成実(しげざね)や討ち死にした老臣鬼庭(もにわ)良直らの奮戦で辛くも日没引き分けに持ち込んだ。連合軍はなぜか一夜のうちに完全撤退する。後に知ることには、佐竹の本領の常陸が脅かされているとの急報が入ったためだった。
 本宮市の国道4号沿いに古戦場として残るこの「人取橋(ひととりばし)の戦い」。勝敗こそつかなかったが、数多くの家臣を失い、政宗自身も被弾する大激戦となった。

生活文化部 阿曽  恵
写 真 部 岩野 一英

[メモ]1579年、13歳の政宗は三春(福島県三春町)城主田村清顕の一人娘、12歳の愛姫(めごひめ)を正室に迎える。列強勢力に挟まれた田村氏が、伊達氏と組むことで独立を保つための政略結婚だった。伊達氏にとっても仙道(中通り)の要衝を確保する意義があった。政宗と愛姫の間には2代仙台藩主忠宗ら3男1女。


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2017年09月27日水曜日


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