宮城のニュース

<独眼竜挑んだ道 生誕450年>第2部源流(3)南奥羽制覇/葛苦闘重ね版図最大に

南奥羽の覇権を懸けて伊達、芦名両軍が激突した摺上原。往時と同じように、磐梯山が古戦場を黙して見守る=福島県磐梯町

 雄大な磐梯山の麓に広がる摺上原(すりあげはら)(福島県猪苗代町、磐梯町)は、政宗が伊達家史上最大の版図を得ることになる記念すべき戦勝の地だ。だが今、当地に残るのは敵軍の会津黒川(後の若松)城主芦名氏の忠臣をたたえる「三忠碑」のみ。政宗が城主の座からわずか1年で立ち去ったが故か。
 父輝宗を失った二本松城主畠山氏との抗争後も、奥羽諸侯との緊張関係は続いた。1588年には宮城県北を支配する大崎氏の内紛に介入。自身は出馬していないが、中新田城(加美町)を攻めて手痛い敗北を喫する。仙道(福島県中通り)の郡山では、芦名と同盟を組む常陸(茨城県)の有力大名佐竹氏ら反伊達連合軍との1カ月以上におよぶ対陣に苦しめられた。

 奥羽の戦国事情は一種独特だ。大名間で政略結婚と養子縁組を繰り返し、ほぼ全てが縁戚の間柄だった。紛争が起きれば当事者以外の第三者が「中人(ちゅうにん)」となって調停する。戦闘は「ほどほど」で終結し、どちらか一方の滅亡には至らない。共存共栄のパワーバランスが取れていた。
 輝宗は生前、大館(いわき市)城主岩城常隆に宛てた手紙で「上方衆が関東口に乱入してきた場合」を想定し、伊達や芦名、山形城主最上氏ら諸侯と足並みをそろえて対処することを持ち掛けている。地縁血縁を根拠に奥羽連合さえ構想していたのだ。
 前世代が築いた秩序はいずれ破綻する。そのほころびを突く存在こそ、若き政宗だった。戦を重ね、気付けば奥羽で四面楚歌。ついに89年、芦名との大一番に臨む。
 摺上原で激突した軍勢は伊達2万3000、芦名1万6000とも。実力、家格ともに奥州で双璧をなす名門同士。だが決戦はわずか数時間、風向きの変化も味方に付けた伊達側の大勝で終わった。敵方の有力武将を内応させた効果も大きい。
 「武力以上に調略にたけた。豪放にして細やか。頻繁に出す自筆書状で人心を掌握した」。合戦を芦名側の視点で描いた「会津執権の栄誉」が直木賞候補となった福島市の作家佐藤巌太郎さん(55)が政宗の勝因を語る。勇猛果敢とは異なる将の器だ。

 芦名滅亡後、諸将が次々服属し、奥羽66郡のうち約半数が政宗の手に落ちた。<七種(ななくさ)を一葉によせてつむ根芹(ねぜり)>。黒川城で迎えた正月。周辺一帯を一気に獲得した満足感が、自ら詠んだ歌にみなぎる。家督相続時に50万石だった領国は5年で120万石以上に急拡大した。24歳。織田信長は今川義元を攻めあぐね、豊臣秀吉はまだ信長に仕えていた年頃だ。
 地方トーナメントを勝ち上がった政宗の次の目標は−。福島県立博物館学芸員の高橋充さん(52)の見立ては冷徹だ。「南奥羽制覇は狙って果たしたというより、目の前の戦いを一つ一つこなしただけの結果にみえる。上杉氏や相馬氏もいる。この時点で関東の先まで意識できたかどうか」
 既に関白秀吉は小田原の北条氏攻めを控え、全国統一に王手をかけていた。南奥羽の妙に活発な動向も把握している。政宗に絶体絶命の危機が迫る。(生活文化部 阿曽恵/写真部 岩野一英)

<メモ>摺上原の合戦の後、伊達政宗の領地となったのは、生誕地米沢を含む山形県南部と宮城県南部、福島県の会津、中通り地方に及ぶ。敗れた芦名義広は会津の黒川城を出て常陸の実家、佐竹氏に逃れた。江戸初期、佐竹氏の秋田転封に伴って角館(仙北市)に入り、現在の城下町の基礎を築いた。

       ◇         ◇

仙台藩の国づくりは伊達政宗を語る一面にすぎない。群雄割拠の戦国時代には覇権を争う苛烈な日々を送った。第2部は生誕から近世大名に至る半生に焦点を当て、武将としての人間像と精神の源流を探る。


関連ページ: 宮城 社会

2017年09月28日木曜日


先頭に戻る