宮城のニュース

<独眼竜挑んだ道 生誕450年>第2部源流(4)小田原参陣/窮地にも したたかさ

小田原城を見下ろす位置にある石垣山城跡。井戸曲輪(くるわ)跡には野面(のづら)積みの石垣の特徴がよく残っている。政宗はこの城の普請場で秀吉と謁見した=神奈川県小田原市

 仙台藩の国づくりは伊達政宗を語る一面にすぎない。群雄割拠の戦国時代には覇権を争う苛烈な日々を送った。第2部は生誕から近世大名に至る半生に焦点を当て、武将としての人間像と精神の源流を探る。
       ◇         ◇
 「只々(ただただ)上の事さへ苦しからず候はば、何事も何事も何事も何事も苦しからず候、上ちがい候はば、切腹まぎれなく候」(関白の事さえうまくいけば他は何一つ心配はない。うまくいかなければ切腹は間違いない)
 1589年末から90年初め、伊達政宗が側近の茂庭綱元に宛てた手紙だ。89年6月の摺上原(すりあげはら)の合戦で会津の芦名義広を倒し、南奥羽の覇者となった政宗。勢いに乗る血気盛んな若者は豊臣秀吉という巨大な壁にぶつかり、苦しみもがいていた。
 秀吉は85年に関白に任官、87年には九州を攻略。天下統一へ、あとは関東と奥羽、中でも小田原(神奈川県小田原市)の北条氏と伊達氏を残すのみとなっていた。
 この局面で版図拡大をもくろむ政宗の会津攻略を秀吉が見逃すはずがなかった。そもそも芦名は秀吉に忠義を誓う一人であり、秀吉は大名同士の私戦を禁ずる「惣無事令(そうぶじれい)」も出していた。
 「すぐに上洛(じょうらく)を」。説明を求める矢のような催促を受けた政宗だったが、秀吉に会えば厳しいとがめを受けるのは必至。自らは動こうとせず、家臣らを通じて遠回しに弁明を重ねるしかなかった。

 秀吉が北条を討つことを決め、政宗に小田原参陣を命じたのは90年1月。この時点でも政宗は北条と内通し、常陸(茨城県)の佐竹氏を攻める構想を温めていた。
 拡大路線を見直し、秀吉に頭を下げるべきか。いや、今更参陣しても秀吉は自分を殺す気かもしれない。ならば、北条と一蓮托生(いちれんたくしょう)で戦うか。胸中は揺れに揺れた。
 家臣の意見も真っ二つに割れた。「伊達成実(しげざね)は主戦論、片倉小十郎景綱は臣従を唱えた」と静岡大名誉教授の小和田哲男さん(73)。「秀吉何するものぞ、という威勢のいい声もあった。しかし最後はその圧倒的兵力を認め、臣従を選ぶしかなかった」
 90年6月、小田原城攻めの本営となった石垣山城に、髪を水引で束ねた死に装束姿の政宗がいた。落城1カ月前の「大遅参」だった。「もう少し遅かったらここが危なかった」。秀吉はそう言って政宗の首をつえで突いた。後に政宗は「首に熱湯をかけられるようだった」と語っている。
 秀吉との謁見(えっけん)に先立ち、政宗は前田利家、浅野長政ら5人の詰問を受けていた。「遅参は近隣国との緊張のため。会津攻略は父の無念を晴らす戦の末に起きたこと」。堂々と申し開きをし、最後には千利休の茶道の教えを請うほどの豪胆さを見せた。
 命が危うい時に茶の話をするとは−。秀吉は気に入ったらしい。会津、岩瀬、安積を没収したが、本領の他に二本松などの所領を許す寛大な処置にとどめた。「秀吉は政宗の器量を認め、殺さず利用する方が得策と判断した」と小和田さんはみる。

 石垣山の山上に立ち、秀吉は自ら政宗に20万にも及ぶ陣立てを説明した。政宗は刀を抜き捨ててかしこまった。有無を言わせぬ天下人のスケールの大きさだった。
 政宗はその後も秀吉に討たれそうになるが、首の皮一枚で生き残る。虚々実々のしたたかな駆け引きが命をつなぐ。
(生活文化部 成田浩二/写真部 岩野一英)

[メモ]石垣山城は「石垣山一夜城」とも呼ばれ、秀吉が一晩で築いたように見せかけて北条氏の戦意を喪失させたといわれる。遅れて参陣した政宗に秀吉はすぐには会おうとせず、底倉という箱根山中に数日間押し込めて詰問を行わせた。石垣山城での接見後は茶の湯で歓待するなど丁重に扱ったという。


関連ページ: 宮城 社会

2017年10月03日火曜日


先頭に戻る