宮城のニュース

<独眼竜挑んだ道 生誕450年>第2部源流(5)家康と駆け引き/同盟、緊張そして和解

岩出山城跡の北西端に家康が普請をさせた馬出(うまだし)が残っている。土を積み上げて城の出入り口を隠し、城外に出撃する拠点となった=大崎市岩出山

 「伊達政宗に謀反の動きあり」
 旧暦の1616年1月、徳川幕府の中心地江戸では不穏なうわさが飛んだ。西日本の大名は家臣に「出陣の用意を」と指示し、一気に緊迫した。
 「実はうわさを流したのは徳川家康だった」。宮城学院女子大の平川新学長(66)は驚くべき見解を示す。
 当時、家康は息子の秀忠に将軍を譲り病床に伏していた。政宗とは長年同盟関係を結んでいたはず。わざわざ緊張関係をつくったのはなぜか。歴史を振り返ってみよう。
 豊臣秀吉が天下統一を果たした翌年の1591年9月。政宗は秀吉による奥羽仕置(しおき)の一環として国替えを命じられ、米沢から岩出山(大崎市)に移った。
 秀吉は家康に城の普請をさせた。家康は岩出山城の西側にある実相寺に約40日間滞在し、城を改修して政宗に引き渡した。
 旧岩出山町史の編さんに携わった大崎市文化財課の菊地優子さん(65)は「岩出山が政宗、家康の接点になった」と語る。
 秀吉の下で忍従の日々を送った2人。98年9月、秀吉が死亡すると、わずか4カ月後に動きだす。政宗の長女五郎八姫と家康の六男忠輝の婚約。伊達、徳川家が同盟関係を結ぶための政略結婚だった。
 政宗は1600年7月、会津を拠点とする上杉景勝と開戦した。奥羽仕置で没収され、上杉に与えられた旧領の回復に執念を燃やし、白石城を攻め落とした。
 8月、家康は刈田、伊達、信夫など旧領の7郡を政宗に与えると約束した。この文書は「百万石のお墨付き」と呼ばれる。政宗は60万石に相当する領地を持ち、7郡を足すと100万石を突破するためだ。
 9月、家康は関ケ原の合戦で勝利を収めた。政宗の上杉攻めが側面支援となった。だが、政宗が奪還できたのは刈田郡だけ。家康が約束を果たさなかったのは、政宗の力の巨大化を警戒したためとみられる。
 政宗の動向は天下の情勢に影響を与えた。14〜15年に起きた大坂の陣。追い詰められた豊臣秀頼は政宗に使者を送り、「家康との間を取り持って」と要請したとされる。政宗は断り、大軍を率いて徳川軍に参加。豊臣家は滅亡した。
 そして16年1月に流れた政宗謀反のうわさ。平川さんは「家康は自分の死後に再び争乱が起きることを恐れた。一番危ないのは政宗。うわさを流して本心を探り、反抗すれば攻め滅ぼそうとした」と推理する。
 伊達家の家中は揺れた。「危険だ」と反対する家臣もいたが政宗は2月、駿府(静岡市)にいた家康の見舞いを敢行する。
 「徳川家の天下を妨げようとは考えていない」。政宗の訴えに家康は涙を流して喜んだ。「将軍秀忠のことは御点前(政宗)に任せる。よろしく」と頼んだ。
 この時政宗は天下取りの夢を捨て、徳川幕府を補佐する道を選んだ。平川さんはそう分析する。
 家康の死は16年4月。岩出山城の引き渡しをして以来、25年の歳月が流れていた。(生活文化部 喜田 浩一/写真部 岩野 一英)

[メモ]政宗謀反のうわさには、五郎八姫が嫁いだ松平忠輝の存在が関わる。越後高田(新潟県上越市)の藩主となるが、素行の悪さから父の家康に嫌われた。大坂の陣の際、豊臣方と政宗、忠輝が結託して謀反を起こすといううわさが流れた。16年、忠輝は五郎八姫と離縁し、領地を没収された。

       ◇         ◇

 仙台藩の国づくりは伊達政宗を語る一面にすぎない。群雄割拠の戦国時代には覇権を争う苛烈な日々を送った。第2部は生誕から近世大名に至る半生に焦点を当て、武将としての人間像と精神の源流を探る。


関連ページ: 宮城 社会

2017年10月04日水曜日


先頭に戻る