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<独眼竜挑んだ道 生誕450年>第2部 源流(6完)母と子/「小次郎成敗」狂言か

大悲願寺の境内に咲く白萩。政宗が訪れ、その美しさに魅入られたという。「事件」後も小次郎はここで生きていたのだろうか=東京都あきる野市

 伊達政宗の生涯を振り返る時、黒い染みのように残る「事件」がある。母義姫(保春院)による毒殺未遂と、それを原因とする弟小次郎の成敗。戦国時代の骨肉の争いを象徴する出来事としても知られる。
 1590年4月、命懸けの小田原参陣を決めた政宗は黒川城(会津若松市)で母の供応に招かれた。料理を口にするとにわかに腹痛を起こした。「母は実家の兄最上義光(よしあき)と通じ、溺愛する弟を当主に据えようとしている」。そう悟った政宗は小次郎を手討ちにし、お家分裂の危機を回避した。「伊達治家記録」が伝える事件の概要だ。

 ただ、謎も多い。治家記録は保春院が事件当夜に最上家に出奔したと書くが、別の史料で、事件後4年間は伊達家で暮らしていた事実が判明している。政宗と親密な手紙の交換を続けている点もふに落ちない。
 「毒殺未遂も小次郎殺害も、政宗と母が仕組んだ狂言ではなかったか」。大胆な仮説を唱えるのは仙台市博物館の佐藤憲一元館長(68)。謎を解く鍵は大悲願寺(東京都あきる野市)にあるという。
 1622年、政宗は江戸屋敷からあきる野市を流れる秋川にアユ漁に出かけ、同寺に立ち寄った。境内に咲く白萩の美しさに感銘を受け、帰ってから当時の住職、海誉上人(13代住職)に宛てて「白萩を分けてほしい」という手紙を送っている。
 注目は、後に15代住職となる法印秀雄(しゅうゆう)という人物が当時寺で修行していたこと。寺の過去帳には、秀雄が没した42年の記録に「伊達大膳大夫(だいぜんだいぶ)輝宗の二男、陸奥守政宗の舎弟なり」とある。つまりこの秀雄は小次郎と同一人である可能性を示している。秀雄は政宗死後の回向も執り行ったらしい。

 事実とすれば、こんな想像が膨らむ。政宗は小田原参陣の前に小次郎擁立の動きを封じたかった。仮に小次郎を討ち、自分も豊臣秀吉に討たれれば血統が絶える。浮かんだのがひそかに小次郎を寺に託す計画。表向き成敗したことにするため、保春院が政宗に毒を盛ったという理由をつくった−。
 保春院は時に政治に口を挟むような男勝りの気性が伝えられる。「実は細やかな気配りができる女性で、そもそも小次郎を当主に据えようという考えもなかった。しかし、政宗にそんな疑念があることを打ち明けられ、お家安泰のために悪名を背負ったのだろう」と佐藤さんは推測する。
 大悲願寺の現住職、加藤章雄(しょうゆう)さん(75)は「政宗が寺を訪れたのは1度だけではないようだ。アユ漁と言いながら、弟に会いに来ていた可能性はある」と話す。白萩を望んだのは離れて暮らす弟を身近に感じるためだったのか。真相は分からない。
 1度は山形に去った保春院だが、最上家が内紛の末に改易されるのに伴い、1622年に仙台の伊達家に戻る。実に28年ぶりの再会を果たした親子。保春院が生涯を閉じたのはそのわずか9カ月後だった。
 <鳴く虫の声を争ふ悲しみも涙の露ぞ袖にひまなき>
 母を亡くしてむせび泣く政宗。「骨肉の争い」の影はみじんも見えない。
(生活文化部 成田 浩二/写真部 岩野 一英)

[メモ]政宗が大悲願寺に送った手紙は「白萩文書」と呼ばれて同寺に大切に保管されている(東京都指定文化財)。手紙の包み紙にも秀雄に関する記述があり「伊達左京太夫輝宗末子鶴若殿と申す御方、伊達政宗殿の御舎弟」と書いている。

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 仙台藩の国づくりは伊達政宗を語る一面にすぎない。群雄割拠の戦国時代には覇権を争う苛烈な日々を送った。第2部は生誕から近世大名に至る半生に焦点を当て、武将としての人間像と精神の源流を探る。


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2017年10月05日木曜日


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