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<独眼竜挑んだ道 生誕450年>第3部 豊穣(1)能楽/自身の人生を重ねる

白河の関を舞台とする「遊行柳(ゆぎょうやなぎ)」を舞う金春安明さん。幽玄で趣深い能の表現に政宗は心酔した=7月1日、仙台市青葉区の市青年文化センター
伊達家伝来の太鼓の胴。蒔絵(まきえ)の技法でつる草が描かれている。政宗も打った可能性がある(17世紀、仙台市博物館蔵)

 伊達政宗ほど文化・芸術を愛した武将は珍しいといわれる。能書家であり、和歌や茶道、香道、能楽にも精通していた。第3部は仙台の地に豊穣(ほうじょう)な文化の種をまいた「文人政宗」に光を当てる。

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 観阿弥・世阿弥が能の基礎を固めたのは室町時代の1400年前後といわれる。戦国から江戸へと時代が移るころには既に「古典」だったが、諸大名は互いの外交手段として、また自藩の文化水準の高さを示すものとして能を大事にした。中でも豊臣秀吉は「能狂い」で知られ、自身をシテ(主役)とする曲目も多く作らせた。
 秀吉が能に耽溺(たんでき)したのは晩年の話だが、政宗は年少のころからその文化に触れ、20歳から本格的に指導を受けた。特に太鼓を得意とし、弟小次郎に打ち方を教えることもあった。1596年に京の伊達屋敷で開かれた能演では、秀吉が「老松」を舞い、政宗が太鼓を打った記録が残る。
 1600年の仙台城普請の縄張り始めでは祝言能「高砂」「田村」「野宮(ののみや)」「養老」「猩々(しょうじょう)」の五番立てが演じられた。能舞台は仙台城本丸や若林城、重臣の茂庭家、片倉家などの屋敷にも造られたらしい。

 シテ方五流の中で、政宗は特に喜多流と金春流に親しんだ。10年には家臣桜井八右衛門安澄を15歳で奈良の金春流宗家に派遣し、10年間修行させて一流の能役者に育て上げている。自身の眼力も優れ、22年に江戸屋敷に2代将軍徳川秀忠を招いて桜井に能を舞わせた際は、終演後に桜井の足の運びなどを注意したという逸話が伝わる。
 政宗を夢中にさせた能の魅力とは一体何だったのか。特に平家物語などに材を取った「修羅物(しゅらもの)」を好んで鑑賞し、涙していたという。「かりそめにも能などは易(やす)からぬ儀なり(中略)我が身の祈祷(きとう)なれば、身をきよめ、行儀よくして、座敷中、高声もせぬ様に」。政宗が語った言葉には、能を神聖視する態度がうかがえる。
 喜多流佐藤家の12代目佐藤寛泰さん(31)は「興行としてでなく、死者を弔う神事のような精神性が政宗の心を捉えたのではないか」と推測する。度重なる戦を経験し、報われない魂の救済を求める物語に共感したのだろうか。
 「能には人生の喜怒哀楽の感情が全て詰まっている。激動の時代を生きた政宗は舞台に自分の人生を重ね合わせたのだろう」と日本能楽会理事の金春流能楽師、金春安明さん(65)。付き合いで仕方なく能を見る大名もいた中で、その芸術性を深く理解する政宗の素養と豊かな感性に驚く。

 1634年、政宗は3代将軍徳川家光に蟄居(ちっきょ)を命じられた喜多流宗家の喜多七太夫のことを取りなし、復帰へと導いている。能に関する政宗の造詣の深さには将軍家も一目置いていたらしい。
 政宗亡き後も仙台藩の歴代藩主は能楽の継承・発展に努め、多くの能楽師が抱えられた。曲目も次第に増え、桜井が金春流宗家で伝授された102番の曲目は5代藩主吉村のころには230番に増えていた。
 金春流能楽師で宮城教育大名誉教授の本屋禎子さんは「能が文化として根付くことは、勝ち負けにこだわる戦のむなしさや、人間的に生きることの大切さを人々の間に広める意味を持った」と指摘する。
(生活文化部 成田浩二/写真部 岩野一英)


[メモ]伊達家では父輝宗の時代に既に能が行われていた。「伊達輝宗日記」には1574年2月に囃子(はやし)を行った記述があり、84年12月に輝宗が正月の行事を書き留めて政宗に渡した「正月仕置之事」にも乱舞始(らんぶはじめ)、謡始(うたいはじめ)の記述がある。


関連ページ: 宮城 文化・暮らし

2017年10月17日火曜日


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