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<独眼竜挑んだ道 生誕450年>第3部豊穣(2)茶の湯/洗練の所作危機脱す

政宗の和歌の掛け軸(右)が見守る中で点前が披露される=仙台市青葉区の石州清水流の茶室
政宗自作の茶杓。織部風(仙台市博物館蔵)
政宗自作の茶杓。遠州風(仙台市博物館蔵)

 一服の茶が、一人の人生とその人が背負う一国の命運を左右することがある。
 1590年、24歳の伊達政宗が豊臣秀吉と初めて出会う場面がまさにそうだろう。秀吉から小田原(神奈川県)の北条氏攻めへの参陣を再三命じられた政宗は、遅れに遅れて到着。所領没収はおろか、死さえ覚悟して臨んだ謁見(えっけん)を辛くも乗り切ると、その場で翌日の茶会に招かれる。

 小田原城を見下ろす石垣山の陣所。秀吉のもてなしを政宗は堂々とした所作で受ける。「なかなかできる」。遠国から出てきたての若者に秀吉はいたく感心した。政宗の首はつながり、南奥羽の領国も会津などを減らされるだけで済んだ。茶が全てと言えないまでも、ピンチを切り抜け、時の最高権力者と親密な関係を築くきっかけとなったのは間違いない。
 政宗の作法は決してにわか仕立てではない。鎌倉時代以来の名門である伊達家では古くから茶の湯に親しんでいた。父の輝宗が84年、新当主となる政宗に与えた「正月仕置之事」と題する手引書には、年男が茶のひき初めをすることが記されている。合戦に明け暮れた87、88年、政宗は上方で流行する千利休風のわび茶の稽古にも励んでいたことが、自身の手紙や「伊達治家記録」に見られる。

 幼少時から身に蓄えた教養は、秀吉と徳川家康に臣従し京や江戸に暮らす政宗の強力な味方だった。「大名同士が会うのは戦場以外は茶の湯か能楽。どちらも人脈作りと情報交換の場であり、支配者階級にとって生き抜くための必須アイテム」。仙台市博物館主幹の高橋あけみさん(56)はこう解説する。
 一寸先は闇の動乱期、茶で心を癒やすひとときもあっただろう。一方でわび・さびの芸術を優雅にたしなむだけにはとどまらない時代の現実がある。「都の文化に通じ、洗練された振る舞いをできることがステータス。茶会でも気を抜けなかったはず」

 政宗が利休と会ったのは一度きりだが、高弟の古田織部やその弟子小堀遠州とは親しく交流した。市博物館に政宗が手ずから竹を削って作った2本の茶杓(ちゃしゃく)がある。1本は織部風、もう1本は遠州風。厚みがあって豪快、あるいはスラリと優美。二人のそれぞれの影響が表れているとされる。
 老境の政宗は現状に一くさり注文を付けている。小姓による政宗の言行録「木村宇右衛門覚書」では「普段うちくつろぎたる中をもきっと改め」ることこそ茶の湯なのに、茶席の亭主も客も「常の寄り合いにたがわず、諸道具も金銀比べのように」なっていると嘆く。痛烈な批判に茶の大成期を直接経験した自負が見て取れる。

 政宗が仙台藩に導入した茶の湯文化の源流は、現在も二つの流派となって受け継がれている。その一つ、石州清水流には政宗直筆の色紙など藩にまつわる品々が伝わる。14代家元の清水道玄さん(62)=仙台市青葉区=は語る。「政宗公を魅了した利休の茶の湯の本質的な世界とは何か。関心を持つ人々と一緒に希求していきたい」
生活文化部 阿曽  恵
写 真 部 岩野 一英

【メモ】政宗は小堀遠州の推挙で古田織部門下の清水道閑を京から招き、召し抱えた。道閑の孫の2代動閑は2代藩主忠宗の命で大和小泉藩(奈良県)主で石州流の流祖となる片桐貞昌の下で修業し、仙台に戻った。3代目以降は2家に分かれ、石州清水流と「仙台藩茶道石州流清水派」(若林区)となって今なお続く。


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2017年10月18日水曜日


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