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<独眼竜挑んだ道 生誕450年>第3部 豊穣(4)文芸/風流 野望 歌に込めて

風光明媚(めいび)な松島の地。政宗は領内を代表する歌枕を愛し、繰り返し歌に詠んだ
和歌詠草「入そめて」(仙台市博物館蔵)。流麗な筆跡に政宗の能書ぶりが伝わる

伊達政宗ほど文化・芸術を愛した武将は珍しいといわれる。能書家であり、和歌や茶道、香道、能楽にも精通していた。第3部は仙台の地に豊穣(ほうじょう)な文化の種をまいた「文人政宗」に光を当てる。

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 思いを言葉にして伝えるコミュニケーション能力は、今も昔もリーダーに求められる大切な要素。伊達政宗が生きた時代は和歌や連歌といった文芸も武家のたしなみとされた。定型の短い詩を作るには風流な観察力と語彙(ごい)力が重要だ。歌を手掛かりに政宗の人間像を探ってみよう。
 <入りそめて国豊かなるみぎりとや千代とかぎらじせんだいの松>。1601年、35歳の政宗は岩出山(大崎市)から仙台に城を移す。領国の末永い繁栄を願って詠んだというこの和歌を、仙台大客員教授で登米伊達家当主の伊達宗弘さん(72)は「開府当時の『やったるぜ』という静かな闘志が感じられる」と受け止める。
 かつて「千代」と書いた地名を「仙台」に改めたのは、唐の韓〓(かんこう)の詩「仙遊観に題す」の冒頭「仙台初めて見る五城楼」から採ったとされる。仙台は仙人が住む場所、五城楼は伝説の楼閣。「政宗が移った当初は荒涼とした原野だった。この地に理想郷を築こうとした挑戦者精神がうかがえる」と称賛する。

 武芸と同様、文芸も尊ぶのは伊達家の伝統だ。歴代当主の名が勅撰(ちょくせん)和歌集に見られ、政宗の曽祖父稙宗(たねむね)は京の公家に和歌の添削を受けている。政宗も正月7日には親族、家臣で連歌の行事を催した。
 上方社会での文芸デビューは28歳の時。1594年、太閤豊臣秀吉主催の吉野(奈良県)の花見の席だった。徳川家康、前田利家、今出川晴季(はるすえ)らそうそうたる武将や公家が居並ぶ歌会。「花の願い」「花の祝い」など5題が出され、参会者が5首ずつ詠む。政宗の出来は一座を驚かせた。
 例えば<君がためよし野の山のまきのはのときはに花の色やそはまし>。「君」は秀吉を指す。加賀前田家の記録「前田創業記」は「なかんずく伊達政宗、辺鄙(へんぴ)の賤地(せんち)に生まるといえども和歌に精(くわ)しく、最も邁(まさ)っている」と率直に記す。しょせん文化に疎い田舎の若造。そんな大方の認識を鮮やかにひっくり返してみせたのだ。
 「政宗の文芸」(仙台・江戸学叢書)の著作がある綿抜豊昭筑波大教授(59)は「地方蔑視の風潮にくじけず、場の雰囲気を読んだパフォーマンスもできる。政宗にとって文芸は実学であり武具に匹敵する道具だった」と指摘する。

 政宗は漢詩にも親しんだ。晩年、酒を酌みつつひねった「酔余口号(すいよこうごう)」と題する1編に「遅れてきた戦国武将」としての人生観が表れている。<馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何>
 信長、秀吉、家康の天下人、乱世を共に駆けた武将の多くが既に没した。今や太平の時代、天が与えた余生を楽しまずにいられようか。老いを前向きに受け入れる悟りと取れるが、綿抜さんは別の可能性も示す。「たばこを吸わない人は殊更『禁煙する』とは言わない。悟ったようなポーズは不本意な現状の裏返し。天下取りの野望がついにかなわなかった悔しさがにじむ」
 達観と未練、いずれを読み取るか。答えは結局、私たち自身がそれぞれに抱く「こうであってほしい」政宗像なのだろう。(生活文化部 阿曽恵/写真部 岩野一英)

<メモ>伊達宗弘さんによる「酔余口号」の読み下しは「馬上の少年は過ぐ 世は平かにして白髪多し 残躯(ざんく)天の赦(ゆる)すところ 楽しまずして是(こ)れ如何(いか)にせん」。同題で「四十年前少壮の時 功名いささかまた自らひそかに期す 老来知らず干戈(かんか)の事 ただ春風に桃李の巵(さかずき)を把(と)るのみ」と読み下す漢詩もある。


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2017年10月24日火曜日


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