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<独眼竜挑んだ道 生誕450年>第3部 豊穣(6完)日常生活/食事と健康に気配り

晩年に住んだ若林城跡(現宮城刑務所)に残る臥竜梅。接ぎ木をされ、推定の樹齢は約260年。元の木は1592年、朝鮮出兵の際に持ち帰り当初は仙台城に植えたとされる=仙台市若林区
政宗時代の正月料理の一部。一番上のわんは赤貝のみそ煮と里芋。宮城調理製菓専門学校(仙台市青葉区)が復元した

 戦国から江戸時代初期を駆け抜けた伊達政宗は意志の強い人だった。食事の献立を自分で決めるなど日常生活に気を配る一方、1人で過ごす時間を大切にし、ストレスをためない工夫をしていた。
 数えで61歳だった1627年、仙台城下の東部に若林城を造って移り住んだ。この頃、身の回りの世話をする小姓の記録に1日の生活が描写されている。

 寝る前に起床時間を明け六つ(午前6時)などと決めて小姓らに伝え、モーニングコールをさせた。指定した時刻に起きられない時には「あと1時間たってから起こすように」などと改めて指示した。
 くしを使って髪を直し、たばこを吸って自分できせるを掃除した。小姓たちと「きょうの天気は」などと会話し、畳2畳分の雪隠(せっちん)に入った。
 雪隠とは便所のことだが、政宗は書斎のような使い方をした。戸棚があり、紙やすずり、徒然草などの本が置いてあった。一人きりで心身ともリラックスし、「心静まり工夫が出る場所」と記されている。
 焼火間(たきびのま)と呼ばれる部屋で家臣たちと朝食を取った。午前10時ごろと遅めで、昼食は取らず1日2食だった。
 日中は政務をしてから八つ時(午後2時)、控えの間に入る。そこで翌朝の料理や一緒に食事をするお相伴衆などの指示をした。行水と着替えをして奥座敷に行き、食事をして寝所に入って就寝した。
 仙台市博物館学芸員の菅原美咲さん(33)はお相伴衆を指名したことについて「当番制にするより、藩士一人一人に目をかけている姿勢を示すことでやる気を引き出す効果もあったようだ」と話す。
 普段の食事は1汁3菜。政宗が自筆で「十五日朝」と記した献立の書き付けが残っている。汁は「ふくさ」と書かれている。「仙台藩の食文化」の著書がある佐藤敏悦さん(66)=仙台市泉区=は「仙台の赤みそと京都の白みそを混ぜ合わせたもので、京都暮らしが長かった政宗の食文化を象徴する」と解説する。
 3菜に当たるのは赤貝の焼き物、ヒバリの焼き鳥、サケを使ったなれずし。いずれも政宗の好物だった。この日は客がいたため酒とコノワタを追加した。
 佐藤さんは「自分の意に沿わないものを食べるべきではないという記述があり、食への関心の高さがうかがわれる」と話す。

 健康法は数多く実践した。夏はもちろん、冬でも大きな茶わんで水を飲み、体調を整えた。行水を欠かさず、薄着に努めた。
 体調が悪い時には脈を自分で測ってから医者に「薬の量を加減するように」と命じた。
 36年、病に襲われた。腹が膨れてつらそうだった様子から、がん性の腹膜炎と推定される。亡くなる寸前には病気を押して江戸に向かい、3代将軍徳川家光に別れのあいさつをした。
 5月24日、江戸屋敷で死去、70歳。好奇心旺盛で何にでも挑戦する生涯を全うした。
(生活文化部 喜田浩一/写真部 岩野一英)

【メモ】元日の正月料理はぜいを尽くしたものだった。3汁16菜の記録が残っている。当時のごちそうだった白鳥の汁やコイの刺し身など京料理の流れをくむ本膳料理が並んだ。一方、サケ、ホヤ、フノリ、赤貝、タラ、クジラなど地場産品も豊富に取り入れた。


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2017年10月26日木曜日


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