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<独眼竜挑んだ道 生誕450年>エピローグ(下)「惜しさ」いとおしく

波乱に満ちた政宗の生涯を振り返り、その人物像と魅力について語る磯田さん=東京・港区
政宗が眠る瑞鳳殿の参道。藩制時代の石段を杉木立が包む=仙台市青葉区

 生誕から450年の時を超えて伊達政宗が多くの人を引きつけるのはなぜか。次世代に何を伝えるべきか。血筋を継ぐ人や識者に尋ねた。

◎歴史学者 磯田道史さん(46)

 −日本史を専門とする立場から、伊達政宗という人物像をどう捉えますか。
 「『幕の内弁当大名』と言いたくなる。武力、外交力はじめ、和歌や書道など文芸面も秀でていた。これほど多彩な能力が詰まった大名は他にいません。背景にあるのは古き良き教育。都を中心に新しい教育体系が広がり、地道な勉強を怠る大名が増える中、東北には鎌倉・室町期の教育が残っていた。政宗は中世武士の教養をしっかり受け継いだのでしょう」

 −隻眼のハンディなど、その生い立ちも人格形成に影響したのでしょうか。
 「影響したでしょう。それで謙虚に努力するタイプになった。ただ、典型的な東北人かというと否です。東北の人は型や筋目を大事にし、慎重に事を運ぶタイプが多いが、政宗は決断と行動が早いですね」
 「『時を移さず行ふは、勇将の本望なり』とも語っている。会津を攻略した後も城普請をせず、ボロな城のまま領土拡大に目を向けています。形式より実利をとる。この積極性は博多あたりに多いタイプかもしれません。東北的でなかったからこそ東北を席巻できたとも言えるでしょう」

 −小田原参陣をはじめ、幾度も修羅場をくぐり抜けていく姿が印象的です。
 「政宗の特筆すべき才能は、相手の性格を知り、行動を読み誤らないこと。合理的で情緒的判断もしない。例えば豊臣秀吉は過去、丸坊主になって謝る者を殺していなかった。ユーモアを持って下手に出れば助けてくれると読んでいる。転ばぬ先に人脈を築いておく用心深さもありました」
 「関ケ原の合戦(1600年)後も『徳川家康から百万石のお墨付きをもらっているよ』という宣伝を盛んに行っています。戦で大貢献したことや家康との浅からぬ関係を何度も印象づけることによって、その後に続く将軍も手を出せなくなるのです。政宗の振る舞いには必ず意味があり、いつも油断なく計算したように思います」

 −天下取りは実現しませんでした。
 「二つ理由があります。一つは時間的な問題。政宗が領国の拡張を始めた時、既に秀吉は15万近い軍勢を指揮し、日本の大半を掌中に収めていた。惣無事令(そうぶじれい)も出されていたから拡張主義を取れなかった。もう一つは空間の問題。東北から都は遠く、政宗は古い土着豪族連合の長です。長期の侵略戦争も難しい。物理的にも制約が大きかったわけです」

 −いつごろまで野望を抱いていたと。
 「大坂の陣(1614〜15年)で豊臣家が滅亡するまででしょうね。元和年間(1615〜24年)には諦めていたと思います。ただ、1630年に『むさし野の月』と題して<出づるより入る山の端はいづくぞと月にとはまし武蔵野の原>と詠んでいます。武蔵野は徳川政権を表す隠語で『勃興するより消えるのはどこなのか。徳川を象徴する月には聞くまい』という意味にもとれる。微妙な心情を感じますね」

 −決して大願成就した武将ではないのに、今も人気が高いのはなぜでしょうか。
 「『惜しみ』の魅力です。こんな歌も詠んでいる。<さゝずとも誰かは越えん逢坂の関の戸埋(うず)む夜半の白雪>。滋賀県の逢坂の関を越えて京都に入ろうにも、降り積もる白雪が道を阻む。この歌に天下取りを雪に阻まれた政宗の悲哀を感じる」
 「確かに政宗は時間・空間・人間に制約された。しかし、『惜しい』政宗の姿に日本人は東北の白雪のような美しさを見ている。欠けた茶わんを愛する心性に通じる。惜しさを、いとおしさに変えて慈しんでいるのだと思います」

(生活文化部 成田 浩二・写真部 岩野 一英)

【いそだ・みちふみ】1970年岡山市生まれ。慶応大大学院文学研究科博士課程修了。茨城大准教授、静岡文化芸術大准教授、教授を経て、2016年4月から国際日本文化研究センター准教授。仙台藩の宿場町が舞台の映画「殿、利息でござる!」(16年公開)の原作者。


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2017年11月02日木曜日


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