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<復幸の設計図>女川・公民連携の軌跡 第3部・共創(上)公聴会を重ねベター探す

復興まちづくりの進行状況や方針を町が住民に説明して回った=2012年1月(宮城県女川町提供)

 東日本大震災からの復興まちづくりには、一見相反する課題が立ちはだかる。「迅速な復興」と「町民の納得」。宮城県の女川町は核となる議論に広く町民を巻き込み、その解決を図った。良質なまちづくりをどう実現するのか。その過程と仕掛けをひもとく。(石巻総局・関根梢)

 「8月までに町の復興計画を作りたい」
 2011年3月の震災から約1カ月後、当時町長を務めていた安住宣孝(72)は職員らにこう切り出した。
 4月に発足した復興推進室長に任ぜられた柳沼利明(58)らは、計画策定委員の選定を急いだ。柳沼は「犠牲者への弔いとして新盆までに新しい町の形を示したかったのだろう」と安住の心中を推し量る。
 5月に計画策定委員会が発足。目標の期限までわずか4カ月とスピードが求められたが、安住は自ら集落へ足を運び、住民への丁寧な説明を重視した。町は5、7月に「公聴会」と称した住民説明会を計10回開き、時には町がバスを手配して住民参加を促した。
 行政と住民が膝を突き合わせて話し合う公聴会では、被災した住民の行き場のない思いが噴出する。

 大きな論点の一つが、離半島部に点在する十数カ所の漁業集落の集約化だった。浜で長年漁業をなりわいとしてきた住民らが強く反発した。「隣の浜とは文化も生活リズムも違う」「自分の浜だから気力が湧くんだ」
 しかし後日、離半島部の若者たちが柳沼を訪ねてきた。「おやじらの世代は反対しているけれど、俺たちは集約してほしいと思っている」「このままでは嫁も来ない」。柳沼は、浜の将来像を巡って家族間でも意見が割れる状況を知った。
 「どうすれば、それぞれの思いをうまくくみ取れるのだろう」。柳沼は無力感と悔しさを募らせながらも、解決策は住民と意見交換を重ねることだと自らに言い聞かせた。

 町は結局、当初提示した案を取り下げ、各集落を高台移転する方向へかじを切った。
 11年8月の最終答申を経て町は9月に復興計画を策定。11月に町長の椅子が須田善明(45)に引き継がれた後も、町長と住民の直接対話は続いた。
 町民が避難生活を送る大崎、仙台両市などでも、まちづくりについての説明会を開催。須田は「町民の思いを肌で受け止めてほしい」と、職員には必ず一度は説明会に足を運ぶよう呼び掛けた。
 説明会では、復興事業の進行状況、生活再建に関わる制度のほか、盛り土の工法などに至るまで多岐にわたる情報を開示。町長自らが考えを示し語り掛けることで、町民との意思疎通を図った。
 「ベストを選び取るのは難しくても、ベターな選択を住民と一緒に探していくことならできる」と柳沼は言う。解決の糸口をたぐり寄せるような小規模な説明会の積み重ねが、町の将来像を町民が広く共有することにつながった。
 こうした取り組みは、世代を問わず議論を交わす「まちづくりワーキンググループ」などに多くの町民が参画する素地を育んだ。(敬称略)


2017年12月04日月曜日


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