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<私の復興>風景復活で心の再生

被災した高齢者のためにデザインした健康器具について語る中島さん=仙台市太白区の東北工大

◎震災6年9カ月〜仙台市太白区 デザイナー・東北工大教授 中島敏さん

 東日本大震災から月日がたつにつれ、「古里の喪失」をより深く感じるようになった。
 津波で約740世帯が全壊した仙台市若林区荒浜。工業デザイナーで東北工大ライフデザイン学部教授の中島敏さん(61)は、市の防災集団移転事業で散り散りになった住民の今を憂う。魚や野菜を分け合い、親戚同様の付き合いが当たり前だった古里・荒浜の風景は失われたままだ。
 同地区の住民らでつくる「荒浜再生を願う会」の副会長を務め、自らの人脈や技術、私財を投じて古里の再生に力を注いできた。
 約300年続く旧家の自宅は津波で全壊。仕事場だった名取市閖上の自身が営むデザイン工房も流された。工房では大学の教え子だった20代のスタッフ2人が犠牲になった。
 出張中で難を逃れた中島さんは2人を助けに行こうとしたが、反り返るように積み上がるがれきの山に、なすすべがなかった。

 ショックだった。自宅と工房の二重ローンも追い打ちを掛け、ふさぎ込む日々が続いた。
 「デザイナーの力を生かすべきだ」。以前の取引先からハッパを掛けられ目覚めた。2011年10月、荒浜再生を願う会を仲間と設立。古里の再建に向けて歩き始めた11年12月、仙台市は荒浜一帯を人が住めない災害危険区域に指定した。
 「多くは望まない。魚を捕り、田畑を耕す。それだけなのに」。かつての暮らし、古里の風景の再生が、心の復興につながるのに。悔しさがこみ上げた。
 自宅と工房を太白区八木山に再建後、「デザインウィークinせんだい」(12〜14年)、国連防災世界会議(15年)などで作成した荒浜の復興デザインを提示。あるべき古里再生を訴え続けたが、市の施策には反映されなかった。
 逆風は続いた。津波で倒れた防風林を材料に、仮設住宅の高齢者の手仕事にしてもらおうと、箸やフォトスタンドなど荒浜で販売できる商品作りを手掛けた。太白区秋保の木工職人や陶芸家とも連携し、いよいよ販売開始と意気込んでいた15年10月、商品を保管していた会の集会所が不審火で焼失した。

 住民の離散が進み、当初約60人いた会の住民会員は約10人に。「荒浜の人口は市全体の0.2%。震災はもはや過去のことなのか」
 大学では学生と一緒に、介護施設や災害公営住宅に住む荒浜の高齢者を訪ねて意見を聞いたり、石巻市の企業と協力し被災した高齢者のための健康器具開発に取り組んだりと、歩みは止めない。災害危険区域の市の活用策を注視し、祭りの再開など住民が集う場を再生するつもりだ。
 「全ての住民の心の中にある荒浜の風景は、今もこれからも変わらない」。そう信じながら。(報道部・菅谷仁)

●私の復興度・・・30%

 物理的(災害公営住宅や防潮堤など)に見れば80%。だが古里の喪失感は埋めきれずにいるので30%。田園と畑、海に面した荒浜での暮らしは東北の原風景であり、誇りだった。全国どこにでもあるような都市計画で、形だけのまちづくりをしても、心のケアにはつながらないと思っている。


2017年12月12日火曜日


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