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<私の復興>行方不明の母へ 何度も何度も念じた気持ちは変わらない「早く戻ってきて」

石巻市雄勝地区の成人式で司会を務めた佐々木さん(左)

◎震災6年10カ月〜宮城県富谷市・大学生 佐々木花菜さん(19)

 東日本大震災の発生当時に宮城県石巻市雄勝中1年だった宮城学院女子大(仙台市)2年佐々木花菜さん(19)は7日、赤い振り袖姿で壇上に立った。
 同級生ら18人が出席した石巻市雄勝地区の成人式。司会を任された。成長した自分を見せたかった母弘江さん=当時(42)=は震災で行方不明のままだ。大人の仲間入りをした晴れ姿を、父勇人さん(57)がビデオを回して見守った。

 あの日は中学校の卒業式があり、午後は自宅にいた。午後2時46分。突然の大きな揺れに襲われ、帰宅した父から、保育園児の弟を連れて裏山に逃げるように言われた。大津波が押し寄せ、流される自宅が高台から見えた。
 両親と2歳上の姉、9歳下の弟と5人暮らしだった。思い出の詰まった自宅は土台だけとなり、内陸の母の実家に約1カ月身を寄せた後、市内のみなし仮設住宅に移った。
 母は津波で全壊した市雄勝病院で管理栄養士をしていた。家でも塩分控えめの料理を作るなど家族の体調に気を配った。優しい「お母さん」だった。
 震災当日の夜、避難先で大人たちが「病院は丸ごと津波にのまれたようだ」と話すのが聞こえた。「自分の親に限って大丈夫」と思ったが、夜が明けても再会はかなわなかった。
 父と一緒に母を捜して遺体安置所を回った。自分は外に止めた父の車で待った。「見つかってほしいけれど、見つかってほしくない」。地震の数分前、母から電話があった。「雪が降ってきたから洗濯物を入れてね」。それが最後の会話となった。

 2011年4月下旬に中学校が仮校舎で再開し、久しぶりに同級生に会えてうれしかった。不安な気持ちが少し紛れた。部活動でソフトテニスに打ち込み、高校でも朝から晩まで練習に明け暮れた。
 母の葬儀は12年3月、石巻市内の葬儀場で営んだ。自宅の仏壇にはあまり線香を上げない。「亡くなったというより、まだいないと思っている」。現実をそう受け止めるからだ。命日とお盆に自宅と雄勝病院の跡地を訪れても、心の中で「どこにいるのかな」と、母の存在を捜す。
 大学に進み、古里を離れて今は富谷市で暮らす。幼児教育を専攻し、将来は児童養護施設で働くのが夢だ。「同じ境遇の子どもたちが話したいとき、話を聞ける存在になりたい」。講義や実習、アルバイトと慌ただしく日々が過ぎる。
 来月で20歳になる。母には「こんなに大きくなったよ」と伝えようと思うが、本音はちょっと違う。届けたい思いは「早く戻ってきて」の一言。震災から6年10カ月、何度も何度も念じた気持ちは変わらない。
(石巻総局・鈴木拓也)

●私の復興度・・・50%

 前進している部分と止まっている部分がある。以前に比べればだんだん気持ちの整理がついてきたし、つらいと思う日は少なくなってきた。それでもたまに津波や地震の怖い夢を見る。その時はまだ気持ちが切り替えられていないと感じる。一方でお母さんが夢に出るとうれしい。お母さんが見つからなければ復興度は上がらないと思う。


2018年01月11日木曜日


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