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<止まった刻 検証・大川小事故>第1部 葛藤(5完)苦しまないで 教え子訴え

東京であったフォーラムで、大川小の教訓と恩師への思いを語る只野さん=2017年12月17日

東日本大震災の津波で全校児童108人中、70人が死亡、4人が行方不明となり、児童を保護していた教職員10人が亡くなった宮城県石巻市大川小。戦後最悪の学校管理下の事故を巡る仙台高裁判決が今春にも言い渡される。あの時、大川小で何があったのか−。7年近くたつ今、当時の子どもたちや関係者が重い口を開き始めた。第1部は当事者の証言などから、学校にいた教職員11人中、唯一助かった当時教務主任の男性教諭(56)の「3.11」を追う。(大川小事故取材班)

◎教務主任の3.11

 「私たちが作った津波避難のマニュアルが生きた」
 石巻市相川小元校長の男性は、東日本大震災の津波で学校管理下での犠牲がなかったことを知り、胸をなで下ろした。
 元校長は1998年4月に赴任。相川小に津波を想定した危機管理マニュアルがないことを知り、着任2年目に災害の歴史や郷土史家の助言などを参考に計画を策定した。
 マニュアルを作った中心メンバー4人の1人が、児童74人と教職員10人が津波の犠牲となった大川小の男性教務主任(56)。当時は相川小の研究主任だった。
 教務主任の相川小時代を知る元同僚の男性(47)は「理科が専攻で自然に詳しい。先生なら裏に山があるなら避難すると考えるはずだ」と話す。大川小で1人だけ生き残った先生がいると聞き、とっさに教務主任を思い浮かべたほどだ。
 相川小は海から約150メートルと近く、津波で3階建ての校舎が水没した。教職員と児童はマニュアル通り裏山の神社に逃げ、在校児童は全員助かった。
 地元の女性は、津波避難訓練の時、教務主任が児童を先導し裏山に上がる姿を覚えている。「先生(教務主任)の言うことを聞いていれば、大川小もみんな助かったと思うと残念でならない」と話す。
 教務主任は相川小にとって「命の恩人」の1人。一方、大川小では「子どもたちを見捨てたのではないか」と正反対の声が上がる。

 2016年4月、仙台地裁であった大川小津波訴訟第8回口頭弁論で、原告団長の今野浩行さん(55)は、教務主任を乗客に紛れて逃げ出した韓国の旅客船セウォル号の船長にたとえ、こう訴えた。
 「子どもたちを救助しなかったことで心を病み、今も遺族の前に顔を出せないでいる。先生が避難した自動車整備工場には人手があり、ロープなど救助に使える道具もあった」
 裏山に逃げ、ぎりぎり助かった高橋和夫さん(69)は住民5、6人を救った。流されかけていた1年の女子児童も、高橋さんが首まで水につかり助けた。
 高橋さんは「薄暗くなっても『助けてー』と叫ぶ声がずいぶん聞こえた。水が引くと同時に声は次第にか細くなり、遠ざかっていった」と悔やむ。
 16年10月の地裁判決は「いかなる救助活動を行おうとも、救命救助の可能性は極めて乏しかった」として、教務主任を免責した。

 5年の千聖さん=当時(11)=を失った紫桃さよみさん(51)は「先生が救助活動をしていれば、児童の犠牲74人が73、72、71に減ったかもしれない」との思いが今も消えない。
 教務主任は震災後、心を病み、7年近く公務災害で休職している。震災前は、シカの角を使った釣り針作りやソーラーパネルを利用したクリスマスツリー制作など、好奇心を刺激する授業や課外活動が子どもたちに大人気だった。
 当時5年の只野哲也さん(18)=高校3年=は昨年末、東京であったフォーラムで恩師への思いを語った。
 「先生の中で1人だけ生き残ったことで葛藤に苦しんでいると思う。言いたいことを言い、少しでも楽になってほしい。震災前の楽しかった話もしてみたい」


関連ページ: 宮城 社会 大川小

2018年01月16日火曜日


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