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<止まった刻 検証・大川小事故>第2部 激震(2)難なく点呼「次」定まらず

約100人の児童が避難した校庭。雪が降る中、「寒いね」と肩を寄せ合っていた=石巻市釜谷の大川小

マグニチュード(M)9.0の国内観測史上最大を記録した東日本大震災。巨大津波が河口から約3.7キロ離れた石巻市大川小を襲うまで約50分あった。児童74人と教職員10人の命が失われるまで何があったのか−。第2部は当時の児童や保護者らの証言を基に、3月11日午後2時46分の地震発生から3時10分ごろまでの初期対応を検証する。(大川小事故取材班)

◎14:46〜15:10

 「ただ今、宮城県沿岸に大津波警報が発令されました。海岸付近や河川の堤防などに絶対近づかないでください」
 3月11日午後2時52分、石巻市大川小の校庭にサイレンが鳴り響いた。校庭の隅に設置された防災行政無線のスピーカーが大津波警報の発令を知らせる。短い警告が2度繰り返された。
 1分前にはNHKのテレビとラジオが東日本の広い範囲に津波の到達予想を伝えていた。「宮城県は午後3時、高さ6メートルです」。時刻と高さはあくまで目安−と付け加える。ラジオ放送は、校庭にいた男性教頭=当時(52)=ら教職員の耳にも届いていた。
 当時、校庭には約100人の児童が整列していた=図=。教室からの移動は全体的にスムーズだった。通学用のヘルメットと防寒着を身に付けて座り、「寒いね」と肩を寄せ合った。

 「点呼を取ります」
 担任の女性教諭に名前を呼ばれ、当時5年の男性(18)=高校3年=は「はい」と返事をした。教諭が一人一人の無事を確認して回る姿を覚えている。
 点呼は数分で終わり、状況が教頭に報告された。男性は「教室から上履きのまま校庭に出て整列・点呼まで、避難訓練で練習した通りにできた」と振り返る。
 2010年6月の避難訓練計画書は、地震発生時の対応を(1)机の下などに避難(2)校庭に避難(3)整列・人員確認(4)次の指示まで待機−と定めていた。
 さらに「校長先生のお話」と続くが、当時校長の柏葉照幸氏は休暇で不在。教頭が指揮を執る際の役割分担や、余震が続く場合の想定はなかった。
 点呼を終えた直後、教職員は校庭から次の避難場所について検討を始めた。
 「どうしますか、山へ逃げますか?」。午後3時ごろ、男性教務主任(56)が教頭らに尋ねた。誰かから「この揺れの中では駄目だ」という趣旨の答えが返ってきた。既に津波の懸念が多少なりとも芽生えていた。
 児童の一部は動揺して泣いたり、抱き合ったりしていた。「先生たちが付いているから大丈夫だよ」。頼もしい声が聞こえた。
 列の後ろで2年担任の男性教諭=当時(55)=が嘔吐(おうと)した女子児童を抱っこしていた。いつもピンクのエプロンを掛けた優しい先生と評判だった。教諭は「ママ」と泣き叫ぶ女子児童を優しくなだめた。

 余震の度、校庭がざわめく。当時5年の男性は前年2月のチリ大地震津波を思い出していた。「こんなに大きな地震なら津波が来るかもな」。ただ、口にはしなかった。教職員や友達からも津波に関する話は聞いた覚えがない。
 男性は「内心は不安だったが、なるべく地震の話題は避けた。友達に『大丈夫』と言いながら、気持ちを落ち着かせようとしていた」と振り返る。
 柏葉氏はこの頃、約60キロ北西の大崎市内から教頭や教務主任、市教委に電話をかけ、教務主任も校長や市教委への連絡を何度も試みたとされる。いずれも電話はつながらなかった。
 方針が定まらないまま、校庭での待機が始まった。


関連ページ: 宮城 社会 大川小

2018年01月24日水曜日


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