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<止まった刻 検証・大川小事故>第3部 迷い(3)避難か待機か 揺れる議論

校庭から裏山を望む。体育館脇の野外ステージ跡に、卒業制作で描かれた壁画が残る

 東日本大震災による津波で、児童74人と教職員10人が犠牲になった宮城県石巻市大川小。巨大津波の襲来が刻一刻と迫る中、教職員と児童は校庭にとどまり続けた。高台への避難をためらわせた「迷い」とは何だったのか−。第3部は当時の児童や保護者らの証言を基に、3月11日午後3時10分ごろから同25分ごろまでの状況を再現、検証する。(大川小事故取材班)

◎15:10〜15:25

 気象庁は3月11日午後3時14分、宮城県で予想される津波の高さを「6メートル」から「10メートル」に引き上げた。テレビ画面にほぼ同時にテロップが映し出された。
 「10メートルの津波が来る」。石巻市大川小の校庭で、児童の母親が携帯電話を示しながら周囲に話し掛けた。式台のラジオはまだ伝えていないが、「10メートル」という巨大津波の情報はさざ波のように校庭に広がった。
 校庭では教職員が住民を交え、対応を話し合っていた。「山へ逃げた方がいい」。男性教頭=当時(52)=は徒歩で2分、小走りで1分ほどで行ける裏山への避難を完全に捨て去ってはいなかった。
 住民は「ここ(釜谷地区)まで来ないから大丈夫」「学校にいた方が安全だ」と主張し、話し合いは平行線をたどる。当時5年の男子児童は、教頭と住民が言い合うような光景を目撃していた。

 住民の危機意識は一様ではなかった。50〜60代の男性が校庭で「津波だっつどう。なんぼでも高いところに上れ」と大声で叫んだ。近所に住む民生委員の女性も「津波来っから、早く逃げらい」と叫び、大きな身ぶりで裏山への避難を促す姿が目撃されている。
 一方、この女性は学校に身を寄せた高齢者に「ここにいれば安心だから」とも話していた。若い父母の多くは仕事で地域外にいた。校庭に身を寄せた住民のほとんどが高齢者だった。
 疑わしきは行動せよ、空振りは許されるが見逃しは許されない−。教頭らが2010年8月、市教委の研修会で学んだのが災害時における「プロアクティブの原則」だ。ただ、当日トップだった教頭をはじめ、教職員はまだ行動に移せずにいた。

 大川小は人口2500弱の地域に立つ小規模校。全校児童108人のほとんどが3世代同居だ。学校運営の基本方針となる大川小の教育計画は「父母の学校教育に対する関心は高く、学校行事やPTA活動などに積極的に参加し、極めて協力的」と記している。
 授業参観の出席率はほぼ100%。運動会の前には保護者総出で校庭を整備し、草1本、石1個残らぬほどだったという。学校と地域の関係は理想的と誰もが信じていた。
 09年4月、柏葉照幸氏が校長に就任後、多くの保護者が「異変」に気づき始めた。まず、教職員が地域の行事に参加しなくなった。裏山でのシイタケ栽培は中止され、保護者への連絡や配布物の遅れが目立つようになった。
 当時の教職員13人のうち、8人が赴任1〜2年目。地域の実情に疎い教員集団が命に関わる重大な決断を住民に頼り、避難が遅れたのではないか−。6年の長男大輔君=当時(12)=を亡くした今野浩行さん(55)は憤りを隠さない。
 「子どもの命は誰が守るのか。判断するのは学校。地域に委ねるのは責任転嫁でしかない」
 午後3時16分、テレビが釜石市を襲う津波の映像を生中継した。自動車が小石のように押し流されていく。巨大津波が太平洋沿岸で牙をむき出し始めた。


関連ページ: 宮城 社会 大川小

2018年02月11日日曜日


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