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<私の復興>災害看護の道 使命に

防護服の着用を体験した勉強会。阿部さん(右)は原発避難の経験を踏まえ、原子力災害への備えを発信する=石巻市の石巻赤十字看護専門学校

◎震災6年11カ月〜石巻市・石巻赤十字看護専門学校2年生 阿部美沙さん(23)

 原子力災害用の防護服を学生仲間に着てもらおう。5日の放課後。石巻市の石巻赤十字看護専門学校で着用体験を企画した。「すごく暑い」「放射線が完全に防げるかどうか心配」。参加者6人が感想を口にする。
 原子力災害をテーマにした勉強会を昨年10月に始めた。グループワーク、非常食の試食会に続き今回で3回目。「原発避難の経験を踏まえ、災害への備えを伝えたい」

 7年前、防護服を着た係員から放射線量のスクリーニング検査を受けた。福島県浪江高2年だった。南相馬市小高区で、育ての親の祖父母と3歳下の妹と暮らしていた。
 東京電力福島第1原発事故の数日後、会津若松市の体育館にたどり着くと、福島県沿岸部から逃れてきた大勢の原発避難者が検査の列を作っていた。
 自分の番が来た。ビーッ。機械音が鳴った。前方の人たちは何事もなく通り抜けたのに。首と膝の線量が高いという。「新しい服に着替えて、風呂に入ってください。それで大丈夫」。係員から告げられた。
 最初の避難先だった南相馬市の小学校で、配膳を手伝うために渡り廊下を行き来して放射線を浴びたのだろうか。古里を離れる前、自宅にいったん寄ったのがいけなかったか。
 「本当に大丈夫なのだろうか」。初めて不安を覚えた。それまでは「見えないなら放射線は怖くない」と高をくくっていた。家族を心配させまいと、気にしたそぶりは見せなかった。
 2011年4月末、福島県南会津町の南会津高に編入した。「原発事故、大丈夫だった?」。新天地で尋ねられるたび、スクリーニング検査時の不安が頭をよぎった。医療機関の検査で健康への影響はなかった。

 高校卒業後、陸上自衛隊衛生科を経て、16年、石巻赤十字看護専門学校に入学した。昨夏、日米の官民組織「トモダチイニシアチブ」などが主催する被災地の看護学生を対象にした米災害看護研修に参加した。
 2週間の日程で、ワシントンDCやニューヨーク市などを訪問。原子力災害の講座もあり、防護服を着て意思疎通を図ったり、被ばくした要介護者に見立てた人形を洗浄したりした。「自分や家族も動けなかったら、こうして洗われたのだろうか」。思い起こさずにはいられなかった。
 勉強会は研修の成果を生かそうと始めた。仲間の看護学生は津波の恐ろしさは分かっていても、原発事故をあまり知らないかもしれない。専門学校の約20キロ先には東北電力女川原発(宮城県女川町、石巻市)がある。原子力災害を題材にしたのは自然な流れだった。
 災害看護の分野で働きたい。看護師は小さいころからの夢。決意を固めたのも原発事故だった。
 「あの時、誰の役にも立てなかった。だから、助ける側の人でありたい。原発避難を経験した私にはその使命がある」。勉強会は最終学年の新年度も続ける。(報道部・庄子晃市)

●私の復興度・・・70パーセント

 普段付き合いがあるのは編入先の高校の友人たち。震災がなければ出会えなかった人たちだ。私自身も原発事故を糧に、災害看護の分野で働く看護師への道を一歩ずつ歩んでいる。一方、帰郷を望んだ祖父は自宅修理中に大けがを負い、施設に入居したまま。家族は古里に戻ることがかなわず、相馬市に家を再建した。残り30%はこの先も埋まらないかもしれない。


2018年02月11日日曜日


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