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<止まった刻 検証・大川小事故>第3部 迷い(4)浸水想定外「油断」助長か

震災前まで津波避難所に指定されていた大川小の体育館。コンクリート部分だけが残る
石巻市が2009年3月に公表した津波ハザードマップ。大川小周辺は予想浸水域を外れていた

東日本大震災による津波で、児童74人と教職員10人が犠牲になった石巻市大川小。巨大津波の襲来が刻一刻と迫る中、教職員と児童は校庭にとどまり続けた。高台への避難をためらわせた「迷い」とは何だったのか−。第3部は当時の児童や保護者らの証言を基に、3月11日午後3時10分ごろから同25分ごろまでの状況を再現、検証する。(大川小事故取材班)

◎15:10〜15:25

 「津波の高さは10メートル。津波警戒隊は高台へ避難せよ」。3月11日午後3時16分、石巻地区消防本部から無線で指令が飛んだ。隊員への撤収命令だ。事態は緊迫の度を増していた。

 午後3時15〜20分ごろ、消防の広報車が石巻市大川小の前を通過した。「大津波警報が発令されています。避難してください」。沿岸の長面(ながつら)方面に向かいながら、サイレンを鳴らして避難を呼び掛けた。
 この時かは不明だが、校舎内を点検していた男性教務主任(56)がサイレンを聞いた。校庭に戻り、男性教頭=当時(52)=に「津波が来ますよ。どうしますか。危なくても山へ逃げますか」と尋ねたが、明確な返答はなかったという。
 教務主任は避難場所を探すため、校舎に戻った。教務主任は震災後、保護者に宛てたファクスで「教頭とは2回、ほんのわずかな会話しか交わすことができなかった」としている。
 前後して、永沼輝昭さん(77)が孫2人を引き取るため、車で大川小に来た。自宅がある長面に津波が来ると直感し、学校から約3キロ山側の釜谷峠に避難するつもりだった。
 永沼さんは、学校前で男性2人を見掛けた。「釜谷の区長だったと思うが、消防署員らしき人に『どこさ逃げればいいんだ』と聞いていた。焦った様子ではなかった」と話す。
 2009年3月に公表された津波ハザードマップで、大川小は市の津波避難所に指定されていた。校庭には本震直後から高齢者らが身を寄せた。毛布やブルーシートを持ち込んだり、使い捨てカイロを配ったりする人もいた。
 当時の校長柏葉照幸氏は大川小事故を巡る訴訟で、「避難所になっている以上、津波は来ないと思った」と釈明。一方で、震災直前の2月、市職員に「堤防を津波が越えてくることはないのか」と尋ね、「計算上、堤防を越えないことになっている」との回答だったと明かした。
 大川小の学区は沿岸の長面、尾崎(おのさき)から学校の東約800メートルまでが津波の予想浸水域に入っていた。防災意識を高めるはずのハザードマップが、逆に「油断」を助長した可能性が高い。

 午後3時21分、FMラジオが予想津波高「10メートル」を伝えた。校庭の式台にあったラジオでFMを聴いていたかは分かっていない。
 同時刻、市河北総合支所副参事だった山田英一さん(62)は新北上大橋を走行中、宮城県女川町に津波が到達したとAMラジオで聴いた。長面、尾崎に避難を呼び掛けるため、山田さんの1号車を含む3台の広報車が支所を出発していた。
 午後3時23分ごろ、3号車が大川小に立ち寄り、支所職員の男性2人が教頭に体育館が使用できるか尋ねた。「照明が落下する危険性があり、受け入れできない」との答えだった。
 この時、津波の話は出なかったという。子どもたちは行儀良く並んでいるように見えた。2人は「じゃあ、学校の方はお任せしますから」と言い残し、校庭を後にした。
 10年2月のチリ津波地震の際にも十数人が体育館に避難した。午後3時23分ごろ、支所職員が体育館を利用できるか確認した行為について、大川小事故を巡る第三者検証委員会は「(教職員の)危機感の高まりを抑制する方向に働いた可能性」の一つに挙げる。


関連ページ: 宮城 社会 大川小

2018年02月12日月曜日


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